Up 海運の進歩 作成: 2018-12-30
更新: 2018-12-30


      高倉新一郎 (1959), pp.58,59
    日本海岸の航路が益々進展して、
    従来北国及び東北地方から上方に輸送される物資は、敦賀または小浜まで海運により、それから琵琶湖の北岸である塩津・海津・大浦または今津まで陸路運搬し、それから湖上を大津まで運び、さらに陸路を京坂に運んだが、
    寛文年間河村瑞賢が海運を刷新して以来、海運は敦賀・小浜より南下し、関門海峡を廻って兵庫もしくは大坂に直結するようになった。
    すなわち松前と京坂とが直接海でつながるようになったのである。
    船も丈夫に且つ大きくなり、蝦夷地行の船も縄綴から釘打船に変って、航海が安全になった。
    広い市場を持ち輸送が安全になり、輸送量もふえたので、松前地方の産物は勢い蝦夷地に伸びると共に、新らしい商品が可能となったのである。
    例えば煎海鼠・串貝・昆布などは、主として松前の産物であったが、元文 [1736-1741] 年間、幕府がこれを長崎における清国交易品に加えてからは、急にその需要が増加し、松前産のものだけでは足らず、蝦夷地に及んだのであった。
    昆布などは最初蝦夷地といっても箱館付近から森付近までのいわゆる六筒場所に限られていたが、寛政 [1789-1801] 年間には、日高・十勝・釧路海岸に及んでいる。
    煎海鼠も宗谷まで及んだ。



    引用文献
    • 高倉新一郎 (1959) :『蝦夷地』, 至文堂 (日本歴史新書), 1959