Up ニシン漁 作成: 2018-11-26
更新: 2019-01-02


      高倉新一郎 (1959 ), p.178
    実際、鰊は松前の宝で、松前の人はこれで生命をつないでいるといってもよかった。
    元文二年 (1737)「北海随筆」に
     「 錬漁誠に海内一の大漁なるべし。‥‥‥
    此魚数十年来不漁と云事なく、其漁時分にはおのづから松前に寄り来て年々時節をたがえず、春分十日過より寄り来る。
    凡二十日程の内に二三度寄来りて、其時漁を得れば翌年までの渡世是にて済むなり。
    といわれていた。
    このころは干鰊は南部・津軽・出羽・北国・近江にわたって肥料に用いられ、(かずのこ)はほとんど全国に拡がっていたが、
    その後干鰊は畿内、西国にまで拡がり、
    漁獲も盛んになって、
    明和 [1764-1772] 年間は最も盛んであった。

      高倉新一郎 (1974), pp.140,141
    諸国の商人は特に松前のにしん漁を目当てに来航した。
    にしんが群来ると、松前人はいずれも一家総出でとり、一年の生活費をこれで稼いだので、これを目当てに呉服商・小間物商・薬屋その他の行商人が荷を負って漁場に集まり、空家を借りて必要な品を売りさばいた。
    これをナンバンウリ (南蛮売り) と呼んだ。
    おそらく魚場(なば)売りが訛ったものであろう。
    また漁期になると、荷物を積みに来る船がいろいろな商品を積み込んで漁場に来た。
    これをナダウリ (灘売り) と唱えた。
    ナンバンウリとのちがいは、ナンバンウリは陸を根拠とするに対し、ナダウリは船を根拠にした点であろう。
    大きな漁業家は商品によっては一船に積んだもの全部を一船単位で買った。
    こうした行商人は、後に一般の漁場が蝦夷地に広がり、また開拓農村が各地にできるようになっても、重要な物資の供給者であった。
    そのある者は宿屋その他を借りて一定期間店舗を出す出張販売者となったり、永久店舗を張る商店になっていった。
    松前での取引の支払いは、一般ににしん漁期の終わった七月と年の改まる師走の二回で、現金買いはまれであった。
    庶民は多くにしん漁期前にその年の漁獲物で返済する約束で生活必需品をオオヤケ(大家)から借り入れた。
    そして漁期の終わりに漁獲物で精算したのである。
    これを仕込みといった。
    漁獲物の価格が借り入れ高に達しない時は下がりと称し、借用証文を入れて負債となるのであるが、翌年はまたその年の漁獲物を担保にして必需物資を得るので、実際はほとんど金を持たなくても生活を続けることができたのである。


      村上島之允 (1800), pp.99,100.
    春彼岸より四月頃まて漁る。
    蝦夷島何地よりも多産せり。
    西夷地の鯡、長大にして、上品なり。
    四十尾を繋き一把とし、背肉を切り(ほじし) 身欠と云 に製す。
    数の子、其中より得る。
    生肉は和らかにして、味あしく、此島の民、鯡、見布を採るを業として農事知らさるに似たり。

      菅江真澄 (1789), pp.360,361
    あるし(宿の主) のいはく、
    世にいふせ(狭)き宿と、さぞな、おぼしさふらはんか、世のすぎはひとて、かゝる畑小屋のやうなる家にも住さふらふ。
    されと鯡の群来(くき)さふらふころは、都まさりににぎはゝしう、
    海はましろにしろみわたりて、やす((もり))のから(柄),舟かひ(櫂)などおし立ても、土にさしたるごとに,かたふき(傾)もさふらはす。
    舟は木の葉をちらしたるやうにこぎ出て,ろかぢ(櫓梶)の音に山もゆるくべう,よるひるとなう海山を人わりありき,火をたつるとて、こゝの磯より火をたかうたいて、鯡のくきたりと,こと浦にしらせ、かしこの浦に火かたちしそなと舟をとばせ,
    又追鯡の漁とて,いつこの浦となうこき来て、野にも山にもまろやかた(丸館)をおしたて,
    くき(群来)ざるいとまには,たゝ,さかもり(酒盛)てふわさにうたひ,ま(舞)ひ,みつのつる(三味線)音海山にとよませ,
    夜は,い(寝)もねす,みめ(見目)ことからのよき、なかのり見て通ひありくを、わか(若)せとも(共)のならはしとせり。 鯡の魚さき,飯かしく女ともを中にのせて漁舟の来れば、鯡場にては女を、なかのりとはいふなり。
    魚場(なんば)うりとて,なにくれの物あき(商)人あり。
    銭も、こかねも、みな海より涌出て山をなしさふらふ。
     ‥‥
    鯡とるもなかに人身まか(罷)れば、ほうりのわさとなう、かり(仮)埋めてふことをして、みな月の末、ふん月になりて、そのをこなひ(葬儀)をなしける」

      松田伝十郎 (1799), pp.160,161
    一、此所 [江差] の産業とするは鯡を第一とし是を収納といふ。
    年柄に寄て豊凶ありといへども夥しく漁事あることあり。
    時節は所に寄て遅速あれども春の彼岸に入り三日め或は五日めには大槩(概)見ゆるなり。
    鯡群集して海面水の色をへんじ、是を松前方言に鯡群来(くき)といふ。
    此群来あるを見て漁舟われ一と出て網を差入るなり。
    小舟なれども舟數の三千餘艘も集りて網を差入て岡に戻る事なり。
    晝夜に限らず群来のある所にて合火を立る事にて、此火を見て近村より舟乗出し集り来て、我おとらじと争て網をさし入るゝなり。
    尤差入るゝ網を夜中陸揚を停止す。 夜あけて銘々出て陸揚いたす。
    私領よりの仕来りといふ。
    一、鯡を漁するには引網を禁し、さし網にて漁する事なり。
    此さし網は貴賤の差別なく其分限に應し貧なるものは壹放し貳放し 鯡網を一放し貳放しと云 を以業とし、富貴なるものは百放し、貳百放しを以業とし、小前までに行渡り、年中の菜のものとて家内人數に合て鹽漬にして貯置て餘は干立て船手へ賣渡す事なり。
    差網に掛る事は網の目毎に懸事をみの掛りといふ。
    一、上方筋、中國、北國邊より賃つみとて諸廻船大小となく數艘入津して弁天嶋の影に繋り居り、何れも本邦より米、酒、鹽、煙草、木綿其外何となく荒物を積来て此所へ賣拂、土地の産物を賃つみて國々へ歸帆す。
    矢張交易の姿なり。
    一、鯡漁中は、町並に住居のものとも(者共)、我家を佐州より来る商人に貸し渡し、其家のものどもは砂濱に出て假小屋を補理、是に住居して餅、酒、菓子、くだもの、小間物の類を商ひ、或は料理茶屋などもあり。
    晝夜となく三味線、大鼓にて賑ふ事本邦の江戸、兩國など夏の夜見せに異る事なし。
    是を濱小屋といふ。
    町並を借り請し佐州商人は小間物、荒もの等を店に並べて商ふ事市場のごとくなり。
    一、西蝦夷地近場所にて漁する鯡干立の上、百石、貳百石積位の船を以て江さしへ積廻し、同所におゐて船手へ商ひ亦江さしに仕入を請し銀主持の分は其銀主へ向て迭り、日々船の出入夥敷、繁栄なること本邦にことならず。
    是を中渡しといふ。
    一、鯡群来て取揚し村方より初鯡と稱し御役所へ獻納あり。
    村々に納高の員数極りありて、江指(差)領の内何方にて取揚るとも御役所へ初鯡納ざる内は村中にて一疋もちらさじといふ私領仕来りを以納来る事ゆへ、是を松前表へ送りて鎭臺へさし出し、同所詰合一統へ配分あるなり。
    一、 ‥‥
    一、鯡は此所にては本邦の稲作に異ならず、生の時、數の子、白子を分け、胴鯡は干場にあけて干立る事なれば、ほし場は何にも廣場になくては間にも合ず。
    寺院の境内を借り清僧地といふとも本堂の前より干立る事なり。
    鯡壹疋を唱ふ事七色あり 數の子、身缺,胴鯡,白子,さゝめ,目きれ,筒鯡 と云ふ。
    一、 ‥‥
    一、鯡漁中は繁華の事、悪しき者入り込し故、町方掛り同心も増掛りありて晝夜とも町廻りし火の元を心づけ、無判者改め 此無判者と云は,南部,津軽邊より渡海し沖ノ口番所上り切手なき者を云ふ。 (もし),盗賊,無判者等ある時は召捕、町會所 是は肝煎,名主はじめ町役人詰所なり にて下吟味を遂げ,夫より御役所へさし出す事にて、白洲におゐて罪の次第を糺し、軽重の咎めを申付るなり。
    無判者は其生國を糺し向地へ渡海申付る事私領仕来なり。


    引用文献
    • 高倉新一郎 (1959 ) : 『蝦夷地』, 至文堂 (日本歴史新書), 1959
    • 高倉新一郎 (1974) :『日本の民俗 1北海道』, 第一法規出版社, 1974
    • 村上島之允 (1800) :『蝦夷島奇観』
      • 佐々木利和, 谷沢尚一 [注記,解説]『蝦夷島奇観』, 雄峰社, 1982
    • 菅江真澄 (1789) :『蝦夷喧辭辨 (えみしのさへき)』
    • 松田伝十郎 (1799) :『北夷談』
      • 高倉新一郎編『日本庶民生活史料集成 第4巻 探検・紀行・地誌 北辺篇』, 三一書房, 1969. pp.77-175