Up 幕府直轄 作成: 2018-12-14
更新: 2018-12-31


      高倉新一郎 (1959 ), pp.118,119
    [幕府の蝦夷地調査で得られた蝦夷に関する] 知識によって識者の注意は著しく蝦夷地に向けられ、徳内の師蘭学者本多利明の如きは、それらを材料として蝦夷地取締りの必要を幕府の要路に献言して止まらなかった。
    寛政元年の国後・目梨の蝦夷乱は、こうした空気の中で起った。
    一時はこの乱の背後にロシヤの使唆があるのではないかと疑われた位であった。
    松前藩のとっている蝦夷地の交易制度、すなわち場所請負制度が、制度そのものの欠陥および松前の監督不行届のために、ただに抜荷の心配があるばかりではなく、
    蝦夷をあざむき、蝦夷を苦しめ、和人に対する反感を買いつつあり、これに乗じて外国人が誘惑すればその方になぴく憂がある。
    この関係を正さねばならぬ。
    寛政乱後の処置によって松前藩の辺境場所に対する制度は改正されたが、なおこれを監督・是正する必要がある。
    幕府はそこで、寛政三年およぴ四年に普請役を蝦夷地に派遣し、重要な場所を一時松前藩から借上げて、御救交易なる名目で蝦夷交易を直営した。
    すなわち寛政三年には普請役四名が厚岸場所でこれを試み、その内二人は得撫島までを巡視し、同四年には普請役三名が宗谷場所および石狩の鮭漁にこれを試み、手分けをして樺太島を西はクシュンナイ、東はトーブツまで、並びに蝦夷島石狩海岸を巡視した。
    交易は新法を出さず、松前藩の仕来り通りにこれを行い、
    ただ蝦夷に対して不正をなさず、交易品は正路の品を選ぴ、秤量を正しくし、老幼をいたわり、貧窮の者に手当をし、善行を賞するということを趣旨とした ‥‥

      吉田常吉 (1962), pp.284-286
    こうした識者の論議に動かされて幕府は蝦夷地の調査に乗出したが、松前藩の力では最早到底これを防禦できぬことが明らかになると、ついに幕府みずから蝦夷地を経営することになって ‥‥
    寛政十一 [1799] 年正月幕府はいよいよ東蝦夷地の浦河から知床に至る地域と島々(千島) を松前藩から上知し、向う七カ年仮りに幕府の直轄としたが、八月にはさらに知内川以東浦河まで直轄地に加え、享和二年(1802)七月ついに東蝦夷地の仮直轄を改めて本直轄とし、箱館奉行を置いた。
    ついで文化四年(1807)三月には西蝦夷地をも上知して、幕府はここに蝦夷全島を支配した。
    この時代の特色は、幕府が北辺の防備に重点を置いて、思い切った積極的な経営を行なったことである。
    防備には南部・津軽二藩を当たらせ、警報あるごとに奥羽諸大藩に出兵を命じた。

      高倉新一郎 (1974 ), p.21
    我が北辺は急に多事になった。
    幕府はこの状態を見、松前藩に任せておいたのでは解決ができないのを見て、
    寛政十一年 (1799) 蝦夷地の幕府直轄に着手し、
    文化四年 (1807) には松前藩を移封して北海道全域を直領とし、
    従来ロシアの勢力の及んでいなかった択捉島を開拓し、
    幕吏及び津軽・南部の兵を駐屯させ、
    漁場を設け、航路を開いてその経営に着手し、
    得撫島におけるロシア勢力の駆逐を図り、
    樺太で、満州への朝貢の性質を帯びていた山担人と蝦夷との交易を直轄に移して満州勢力の駆逐を図った。
    同時に北海道にも要所に幕吏・藩兵を駐屯させ、
    交通を便にし、
    行政組織を整えて、
    積極的に蝦夷を撫育し、その同化を図った。
    これによって蝦夷地は急激に開拓され始めたのである。



    引用文献
    • 高倉新一郎 (1959 ) : 『蝦夷地』, 至文堂 (日本歴史新書), 1959
    • 高倉新一郎 (1974 ) : 『日本の民俗 1北海道』, 第一法規出版社, 1974
    • 吉田常吉 (1962) :「蝦夷地の歴史」
      • 吉田常吉[編], 松浦武四郎『新版 蝦夷日誌(下), 時事通信社, 1962, pp.279-306.