Up 入植・殖産興業政策 作成: 2018-12-14
更新: 2018-12-14


      吉田常吉 (1962), pp.284-286
    [前幕領時代 (1799 -1821)]
    北辺の警備を厳にするためには、和人を移して土地を開拓させる必要があった。
    しかし蝦夷はなお強暴で、反乱の虞れもあったので、和人の移住は容易なことではなかった。
    そこで幕府は蝦夷の愛育に力を入れてこれを懐柔し、和語や文字を教え、風俗を和風に変え、産業を授けるなど、蝦夷地をほぼ内地とひとしくすることに意を用いた。
    また東蝦夷地の場所請負人の苛酷な交易法を改めるため、東蝦夷地を官の直捌(じかさばき)(幕府直営)にして、蝦夷の心服を得ることに努めた。
    幕府は後に西蝦夷地をも直轄したが、同地には直捌を行なわず、東蝦夷地も文化九年(一八二一)に直捌を廃し、誠実に事に当たるのを条件にして、再び請負人制度を復活した。
    東蝦夷地の直捌および警備のためには、まず交通機関の改善が必要であった。
    このために陸には道路を開鑿し、旅舎を建て、駅馬を備え、駅逓制度を設け、また海には多くの官船を浮べ、江戸からの東回り航路の発達に力を入れた。
    和人の移住や土地の開墾も多くなり、ことに東蝦夷地の小安(おやす)(渡島国亀田郡) 以下の六カ場所は和人が多く移住して松前地と変るところがなくなったので、場所を廃して村並とした。
    また和人が多く入稼した東蝦夷地には官で牧場を設けたり、有珠・様似・厚岸には三寺を建立した。
    東蝦夷地の漁業は従来西蝦夷地より劣っていたが、この時代に急速に発達し、ことに奥蝦夷地の根室場所の鮭、択捉場所の鱒の漁獲は大規模な事業となった。
    また西蝦夷地も江差・福山地方の鰊の不漁によって、その地方の漁民で入稼する者が増加して産額は増加したが、その発達は東蝦夷地に及ばなかった。

      同上, pp.287,288
    文化四・五年(1807─8) 頃の蝦夷地の和人の人口は三万一千七百余人であったが、嘉永三年(1850) の調査では五万九千五百余人となり、三十年間で九割近くも増加した。‥‥
    これに伴って、西蝦夷地ことに神威岬以南の諸場所に漁民が土着して開拓に従事するようになったのは、この時代の現象であった。‥‥
    このような西蝦夷の労働力の増加はこの地方に漁業の進歩をもたらし、ことに鰊漁は従前に増加し、ついに鰊搾粕さえ製造されるようになった。
    これに反して東蝦夷地の漁業は一般に振わず、前時代に目覚ましい発展を示した奥地の漁業も次第に凋落していった。
    蝦夷の戸口が著しく減少し、その勢力を失った ‥‥

      同上, p.289
    [後幕領時代 (1855 -1868)]
    西蝦夷地の神威岬における婦女通行の禁を解いたので、同岬から雄冬岬に至る数十里の海岸に点々として部落ができるようになった。
    また南方より次第に開拓する方針を採り、士族を在住させ、農民を募って移住して開墾させた。
    また前幕領時代に行なわれなかった西蝦夷地の道路の開鑿にも力を入れ、馬匹を送って運搬の便に供した。
    産業にも奨励の方針を採って、開墾・養蚕・植樹・牧畜・採鉱などの事業に資金を貸付け、或は産物を買上げ、或は官みずから経営に当たった。
    ことに漁業の発達は自覚ましく、鰊漁は大網を許可したので産額を増加し、また昆布業も箱館開港による販路の拡張で活況を呈した。

      同上, pp.302-306
    移民の奨励
    道路の開鑿こともに幕府が力を用いたのは、移民の奨励であった。
    もちろん蝦夷地の開拓は前幕領時代にも行なわれたが、きわめて消極的であった。
    しかし後幕領時代にはその機運も熟し、また可能性も見えてきた。
    堅実な土着民を増加させる開拓は、幕府直轄の最大の目的である蝦夷地の確保に最も重要であったから、ここに幕府は開拓に本腰をいれることになった。
    幕府は安政三年(一八五六) 二月布達して、士族で開拓を望む者には蝦夷地在住を仰付け、陪臣・浪人・百姓・町人で移住し、農業その他の産業に従事しようとする者には望に任せた。
    そして成績の良い者には、士分は身分を取立て、庶民は地所や居宅を授け、そのうえ賞賜手当などもつかわして移住を奨励した。
    諸産業といっても種類によっておのずから開発の方針が異なった。
    すなわち、漁業は産業中の首位を占め、かつ利益が多く、特別の保護を与えなくても漁民の数は年々増加していったので、幕府はただ、その障害を除けばよかった。
    しかし、拓殖の主眼となるべき農業が利益が薄く、移民でこれに従事する者も少なかったので、幕府はこれを厚く保護奨励した。
    また、牧畜・植樹・採鉱などの産業は、これを民業として急速に発達させることが困難なので、多くは幕府みずから創始経営し、かねて民業を保護育成する方針をとった。
    諸制限の撤廃
    幕府は移民の増加をはかるために、これを妨げていた諸制限を漸次撤廃していった。
    従来蝦夷地に出稼ぎする者は、沖口番所の改を受けて通行切手を貰わなければならなかったが、安政四年四月箱館ならびにその付近の諸村から蝦夷地に赴く出稼人に限り、爾後沖口番所の改を経るにおよばずとし、村役人の奥印を得てこれを山越内番所に、また砂原・鷲木(わしのき)から渡海する者は、室蘭番所に提出すればよいとした。
    また従来箱館ならびに蝦夷地に入稼する諸国の者には、旅人入役銭として、男一人につき銭一貫二百文、女は六百文、十五歳以下十一歳までは男女ともに半額を納めなければならなかったが、この旅人入役銭も免除した。
    翌年には出稼中蝦夷地で出生した者はその場所の戸籍に入れ、出稼人でも永住を希望する者は、送籍がなくてその場所の戸籍に加えなくても永住人として取扱い、越年役は免除することにした。
    なお従来東蝦夷地の入口に設けられ、奉行所の役人が在勤して出入の者を検査していた山越内関門は、文久元年(1861) 六月に廃しされ、旅人の通行が自由となった。
    この他、西蝦夷地では婦人が神威岬を通過する時は、その船は覆没するといって通行を禁止していたのを、幕府はこの旧慣を無視して禁制を撤廃した。
    黒松内山道や西海岸の諸山道が開通したので、従来神威岬に阻止されていた漁民らは、妻子を件ってその以北に移住するようになった。
    また支配人・番人の永住は容易に実行されなかったので、身元の確実な者で永住する者ならば何国の者でも差支えないとして、松前居住の者に限られていた支配人・番人の制限を撤廃した。
    東蝦夷地の発展
    このような幕府の蝦夷地開拓の奨励策は次第に効果をあげていった。
    東蝦夷地では山越内場所が急速に開けて、漁夫や農民らの出稼ぎする者が多くなったので、元治元年(一八六四)六月に請負人を廃し、山越内・長万部に分けてそれぞれ村並とした。
    しかしこれから奥の諸場所にはまだ土着する者が多くなかったが、それでも以前に比較すれば出稼人が増加した。
    ことに室蘭(今の元室蘭)には在住があり、旅人宿を営む者などがあって一つの部落をなしていた。
    また釧路も会所元に安政四年請負人佐野孫右衛門が幕府の旨を受けて移した永住者五戸があり、その他諸藩の領地中に元陣屋・出張陣屋のある所には、吏員以下数多の人員が在留していた。
    西蝦夷地の発展
    西蝦夷地の発展は東蝦夷地よりさらに顕著であった。
    神威岬の通行の禁止が解かれたので、従来和人が土着したことのなかった積丹から浜益(はまましけ)に至る海岸一帯の漁利のある地には、たちまち土着者ができて一変した。 ことに小樽内・余市・石狩などは、茅屋ではあるが人家が軒を連ねて小市街をつくり、商舗や妓家はもとより、寺院や医師もあるようになった。
    また石狩原野には発寒・篠路(しのろ)・中島・札幌の諸部落が生まれ、岩内原野には幌似や発足(はったり)の小開墾地ができ、浜益には庄内藩が開墾した柏木原など八カ村ができた。
    これに比較すると雄冬岬以北は劣つてはいたが、増毛・留萌・利尻の諸場所には、いずれも出稼ぎの漁夫が増加し、留萌には庄内藩が開いた賢別(まさりべつ)や茅原の開墾地があり、宗谷には護国寺と称する寺院さえ建立されたのである。
    人口の増加
    開拓の発展に伴って、蝦夷地の人口も増加していった。
    松浦武四郎の『東西蝦夷山川地理取調圖』安政人別によると、和人の人口は箱館地方が三万余人、福山地方が三万余人、江差地方が二万余人、熊石地方(乙部より熊石に至る幕領八ヵ村)が六千三百余人、合計八万六千三百余人で、これに蝦夷一万五千七百余人を合算すると、蝦夷地全島の総人口は十万以上に達していた。
    これ以外に越年および事実上土着民にひとしい他領の出稼人も少なくなかった。
    試みに万延元年(1860) に箱館沖口番所に越年役を納入した出稼人の数を見れば、約三千七百人であった。 したがって蝦夷地全島の総人口は、少なく見積っても十万五千人を下らなかったものと思われる。



    引用文献
    • 吉田常吉 (1962) :「蝦夷地の歴史」
      • 吉田常吉[編], 松浦武四郎『新版 蝦夷日誌(下), 時事通信社, 1962, pp.279-306.