Up 道路・駅馬 作成: 2018-12-14
更新: 2019-01-02


      高倉新一郎 (1959 ), p.194
    こうした情勢の中で、幕府は樺太経営の路となる蝦夷地の経営に力をそそがざるを得なかった。
    何よりも樺太への連絡をよくせねばならぬ。
    西蝦夷は東蝦夷と異なり、山が海にせまって断崖をなし、雄冬(オフユ)岬をこえるまでは難所の連続で、ほとんど陸路を行くことが出来なかった。

      吉田常吉 (1962), , pp.301,302
    箱館奉行は台場の普請や役宅の建築など急を要する事業が多かったので道路の開鑿には官費を用いない方法をとった。
    すなわち各場所請負人に命じてその持場所内の道路を開かせ、また小部分は橋銭を取って経費を償う方法で出願者に許可した。
    当時この地方の請負人は豊漁に恵まれて資力があったのと、また鰊出稼人が多くて道路の開鑿に要する労力が充分であったのとによる。
    こうして東西海岸を連絡する長万部・磯谷間約十里を結ぶ黒松内山道をはじめ、雷電嶺 (磯谷・岩内間)、岩内・余市間 (文化年間に開鑿されたが、すでに荒廃していた)、余市・小樽間、小樽・銭函間の山道が開鑿されて石狩に出る道路が開通した。
    さらに濃昼(こきびる)山道・雄冬山道も完成し、従来から東西海岸連絡の重要路線であった石狩低地帯には、銭函より発寒(はっさぶ)・札幌を経て千歳に至る道路も開通た。
    また熊石・島小牧間の太田山・狩場山の険山には、太田山道・狩場山道ができ、箱館から江差に至る捷路として(うずら)山道などが切り開かれた。
    これによって蝦夷地を一周する循環道路は、ことにほぼ完成をみたのである。


      吉田常吉 (1962), p.302
    西蝦夷地の道路開鑿で、蝦夷地を一周して通行屋・昼休所・渡船などの設備がゆきわたり駅馬も配置された。
    従来蝦夷地では馬の私有は禁ぜられていたが、文久元年(1861) 五月から請負人はじめ出稼人も馬を飼育することを許し、運搬継立の出願を許可したので、運輸は一層便利となった。
    人馬賃銭は前幕領時代以来、普通一里につき人足一人銭二十文、馬一頭銭四十文とし、奉行所吏員および在住の通行はその半額、持場内は無賃であったが、安政二年(1855) 人足賃を五割増とし、同五年には荷物貫目を定め、人足は一人につき五貫目、馬は一頭につき二十貫目を限りとし、それ以上超過するときは賃銭の割増をさせた。



    引用文献
    • 高倉新一郎 (1959 ) : 『蝦夷地』, 至文堂 (日本歴史新書), 1959
    • 吉田常吉 (1962) :「蝦夷地の歴史」
      • 吉田常吉[編], 松浦武四郎『新版 蝦夷日誌(下), 時事通信社, 1962, pp.279-306.