Up 場所 作成: 2018-12-29
更新: 2019-02-25


      松宮観山 (1710), p.389
    松前の者、夷地へ商に参候て、大方海邊に小屋掛仕、船をあげ罷在候。
    是は、縄とぢ船にて渡り候者共、久しく海中に船を着置候得ば、縄くさり候故、右の通仕候事。


      高倉新一郎 (1959), pp.44-46
    恐らくは松前藩が、将軍家から受けた黒印に基いて認められた蝦夷の保護者であるという地位を積極的に利用するため、蝦夷を撫育するという趣旨から、蝦夷地に向って交易船が出されたに相違ない、
    そして蝦夷は又、居ながらにして珍奇なものが手に入るので、これを歓迎したに相違ない。
    松前ではこの蝦夷交易を後々までも介抱と呼んでいた。
    何事も不自由な、だから苦労をしながら城下にまで交易に集まって来る蝦夷に、その欲するものを持って行ってやる、という意味である。
    ウイマムが親愛なる隣国の有力者トクイ (得意) に対して行われる儀式でありながら、その節の贈物が実は交換の大切な要件であったように、オムシャは蝦夷地における交易の大切な要件であった。
    介抱に行く者とこれを迎える土地の有力者との間に久濶の挨拶がのべられ、贈物が交換されて、その後に交易が始められたのである。
    この交易の範囲と人とは決められていた。
    範囲を場所といい、この場所に対する蝦夷交易を知行として藩から特許されていた者を場所持といった。
    場所持は年々縄綴船一隻を自分の場所に派遣して交易をし、得たものを松前に持ち帰って売捌き、その利益を生活の資にした。
    縄綴船とは木を(えぐ)って作った船敷に側板を木皮で閉じた船で、蝦夷のウイマム船がこれであった。 大きくて五百石積位のものであったが、吃水が浅く何処へでも引上げて停泊が出来、綴を切ると簡単に囲うことが出来る便利な船だった。
    場所の範囲は松前藩が決めたものではなく、相手の蝦夷の有力者の勢力範囲がそうなったものであろう。
     ‥‥
    場所持は、相手に決められた蝦夷の有力者の居所付近で、船付もよく、蝦夷も集合し易い場所に船を派遣すると、その有力者の配下の蝦夷がここへ集まって交易をしたものだろう。
    それが、後世になって、和人が漁業をするようになってから境界がやかましく、場所なるものが成立するに到ったのだろう。  ‥‥
    遠距離の所は場所の設定はおそく、
    宗谷場所は貞享年中(1684-7)、
    樺太場所は寛政二年(1790)、
    斜里場所が寛政年中であり、
    厚岸(アッケシ)場所は寛永 [1624-1645] 年中すでに開かれていたが、それから先、
    後の根室(ネモロ)場所、当時の霧多布(キリタップ)場所は元禄十四年(1701)、
    国後(クナシリ)場所は宝暦四年(1754) に設けられた。
    場所が地域的に固定されるのは幕府直轄以後の事であるが、それまでに多少の合同や分裂があったと思われる。



    引用文献
    • 松宮観山 (1710) :『蝦夷談筆記』
      • 高倉新一郎編『日本庶民生活史料集成 第4巻』(探検・紀行・地誌. 北辺篇), 三一書房, 1969. pp.387-400.
    • 高倉新一郎 (1959) :『蝦夷地』, 至文堂 (日本歴史新書), 1959