Up 離隔制──蝦夷地・和人地 作成: 2018-11-28
更新: 2019-03-24


      高倉新一郎 (1936), pp.166.167
    松前氏が先住民族たるアイヌの勢力を抑えて大和民族活動の基礎を確立したのは天文十九(1550)年のことであるが、
    当事は和睦の形で附近の蝦夷と結び、この歓心を買ってその勢力範囲を保持したに過ぎず、その勢力が次第に大きくなって一藩として独立するに至っても、わずかに渡島の一角に割拠する小藩に過ぎず、これに反してアイヌの勢力は後世のそれとは比較にならない位強大なものであったから、土人の権利を無視し、これを圧迫して植民者のみの利益を守るということは到底望み得なかった。
    故に離隔制 (Segregation) をとり、可及的にアイヌと和人の接触を避け、いわゆる蝦夷地のことは全くアイヌの住むがままに任せておくほかはなかった。
    大部分のアイヌは自治のままに放任され、彼等の風俗、習慣に対しては何等松前氏の干渉を受けることなしに生活していたのである。
    もっとも松前藩は、その独立の基礎として、蝦夷地交易の独占を認められ、蝦夷地を若干の場所に分けてこれを家臣に分ち与えたが、知行主と場所内のアイヌの関係は交易に止まり、アイヌはこれによってほとんど束縛を受けることはなかった。
    松前藩はアイヌの従来の慣習に干渉することなくこれを認め、アイヌをして自由に漁狩に従事せしめ、その獲た所のものを交易によって獲得していたのである。

      高倉新一郎 (1942), p.45
    松前氏の独立当時は、未だ内地人の勢力は微々たるもので、産業は多く季節的出稼人に依て行はれ、土着民は亀田付近から熊石にかけての一帯の海岸数十里の間に点々居住するに過ぎなかった。
    而してそれ以外の土地は悉く蝦夷の占拠する所であって、内地人の居住範囲即ち和人(シャモ)地若くは松前地に対して蝦夷地と呼ばれて居、
    藩制が整ふや、蝦夷との混住は動ともすれば争乱の起り易きを見て、松前地には、従来雑居せるものゝの外は蝦夷の来住を許さず、蝦夷地には絶対に内地人の住むを禁じ、後には亀田・熊石の両所に番所を設けて蝦夷地出入の者の検査取締をなすに至った。

      高倉新一郎 (1959), p.24
    ‥‥ 短い間にすべての場所が設立され、それが知行化したとは考えられない ‥‥


    〇 和人地
    • 近世初頭
        西は乙部村,東は亀田以南の石崎村
    • 17世紀末
        西は熊石村,東は石崎村
    • 1800年(寛政12)
        小安〜野田追間の箱館6ヵ場所の〈村並〉化に伴い,東の境が事実上山越内(現,八雲町)まで北上

デジタル熊石町史「第4章 松前藩の成立」から引用 :


    〇 蝦夷地
    • 口(くち)蝦夷地・近蝦夷地
        和人地に近い南部の蝦夷地
    • 東蝦夷地・下蝦夷地
        南千島を含む東北海道部
    • 西蝦夷地・上蝦夷地
        熊石以北宗谷までの日本海側,および宗谷から知床岬に至る,北海道西北部
    • 北蝦夷地
        樺太 (カラト島・カラフト島) を,1809年 (文化6) 以降「北蝦夷地」と呼称

小学館『日本大百科全書(ニッポニカ)』「蝦夷地」から引用 (一部削除):



    上記区分は,漠然としたものから始まった。
    1799年,東蝦夷地を幕府直轄とすることになって,境界をきちんと画定せねばならなくなる。


    引用文献
    • 高倉新一郎 (1936) : 「アイヌの漁猟権について」,『社会経済史学』第6巻6・7号, 1936
      • 高倉新一郎『アイヌ研究』, 北海道大学生活協同組合, 1966., pp.163-217
    • 高倉新一郎 (1942) :『アイヌ政策史』, 日本評論社, 1942
    • 高倉新一郎 (1959) :『蝦夷地』, 至文堂 (日本歴史新書), 1959
    • Siebold (1881) : 原田信男他[訳注]『小シーボルト蝦夷見聞記』(東洋文庫597), 平凡社, 1996

    引用Webサイト