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高倉新一郎 (1959), p.107
松前藩が幕府の求めに応じて、正保元年(1644) 御国絵図の一部として奉った「松前蝦夷図」は、寛永十二〜三年(1635〜6) 藩士を実地に派遣して実査の結果できたものであり、蝦夷島の周廻は勿論、島々、ことに樺太島・千島列島までもふくんだ精図であったが、位置・大小・方向は当を失し、また樺太・千島は土人から聞いた知識で描いたものであった。
しかも、秘図として、特殊の人しか見ることができなかった。そしてその後十八世紀を迎えても、大きな進歩を見なかった。
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松前藩『元禄国絵図』,1697
引用文献
- 高倉新一郎 (1959) :『蝦夷地』, 至文堂 (日本歴史新書), 1959
引用Webサイト
- 北海道大学 北方資料電子展示 : 松前藩『元禄国絵図』, 1697
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江戸幕府は慶長以来、四度にわたって全国の大名に国絵図作製を命じ提出させた。三度目の元禄10年(1697)に命じて提出させたのが元禄国絵図である。松前藩の場合、慶長・正保の国絵図は現存せず、元禄13年1月に作製、提出した元禄国絵図によって当時の北方図の様子を知ることができる。楕円形の蝦夷地、方形のカラフト島、米粒状の千島列島が松前藩の北方認識であった。」
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