Up 寛文九年蝦夷乱 作成: 2019-03-24
更新: 2019-03-25


      高倉新一郎 (1942), p.48
    松前藩の繁栄は、実に渡島半島の蝦夷を鎮定して、対蝦夷交易による利益を確保し、さらに諸国から集まる商船よりの収税権を獲得した時に始まる。

      高倉新一郎 (1942), pp.55,56
    場所制度が確立すると、知行主のその場所に於ける交易独占権をより完全にするため、蝦夷が自由に他地方に往来交易することを禁止した。‥‥‥
    無智な原住者を偽るのは容易であったからして、何時しか介抱の名すらついた、蝦夷を不当な交易より保護せんとする意味を持つ独占交易の性質を忘れ、交易品の質を粗悪にし、秤量を誤魔化し、その間に利益を占め様としたのは免れることの出来ない現象である。 殊に内地人の地位が高まり、勢力が強くなるにつれて、その圧迫は益々強化して行った。‥‥‥
    知行主は、最初は蝦夷と交易するに止どまってゐたが、年を経るに従って交易に赴いた内地人自らが漁猟に従事するように至った。 蓋し生産能率の低い蝦夷との交易のみでは到底所期の生産を挙げることが出来なかった故である。‥‥‥ 蝦夷は是を以て自己の権利を奪ふものとして反対した‥‥‥

    これらが伏線となり, 「寛文九(1669)年蝦夷乱」が起こる。
    乱は鎮定され,ここに松前藩の蝦夷支配の確立となる。

      高倉新一郎 (1942), pp.58,59
    此の事件は、可成天下の耳目を聳動したが、
    もともと彼等の社会組織の脆弱より来た無秩序な、連絡のない一揆にすぎず、
    兵器に於ても、征討軍は鉄砲を有するに対し、蝦夷は毒矢を有するに過ぎず、
    且つ内地人と深い交渉を有してゐただけ、又、松前との交易を断たれては、忽ち生活に不自由を来すものが多かったから、
    寛文九年征討軍がまず進んでシャクシャインを討伐し、その中心勢力を滅し、討伐が余党に及ぶと見るや、忽ち鎮定に帰した。
    乱後、松前氏は、寛文十年は余市に、翌々十一年には白老に、十二年には国縫(くんぬい)に兵を発して蝦夷を処置し、償を()れて誓約をなさしめた。
     起請文の事
     一  従殿様、如何成儀被仰懸候とも、私儀は勿論、孫子一門並うたれ [同族] 男女に不限、逆心仕間敷候事。
     一  殿様え逆心を企申歟、
    御苦労に罷成儀等申夷及承候はゞ、随分意見仕、其上承引不仕候はゞ、何卒通路罷成に於ては、早々御注進可申上侯事。
    附、仲間出入御座候はゞ、随分面々及手立申儀候はゞ、取扱可申事。
     一  殿様御用にてしゃも [内地人] 浦々罷通候はゞ、少も如在(じょさい) [手落ち] 仕間敷候。
    縦令しゃも自分の用にて通り候とも、随分馳走可致候事。
     一  御鷹侍並金掘に少も如在仕間敷候事。
     一  従殿様、向後(きょうこう) [今後] 被仰出候通、商船へ我儘不申懸、互に首尾能商可仕候。
    余所の国の荷物買取申間敷候。
    我国にて調申荷物も、脇の国へ持参仕商売致間敷候。
    人の国にて取申候皮・干鮭、我国へ持参仕売買致者、跡々より仕付候通可致候事。
     一  向後米一俵に付皮五枚、干鮭五束、商売可仕候。
    新物・煙草・金道具に至るまで、米に応じ、跡々より高直に商売可仕候。
    荷物沢山に有之年は、米一俵に皮類も干鮭も下直に商売可致候事。
     一  殿様御用にて、状使、並御鷹送申儀、其外伝馬、宿送、昼夜に不限、少も如在仕間敷候。御鷹の餌犬あたひ出し不申候共、無遅々出し可申候事。
      右之旨、私儀は勿論、孫子一門並うたれ男女に不限、少も相背申間敷候。
    若相背候者於之は、神々之蒙御罰、子孫長く絶果可申候。
    依て起請文如件。
    是に依て、蝦夷は全く降伏し、其後叛する者は其跡を絶ち、貞享二年 (一六八五) よりは西蝦夷奥地の酋長が年々松前に貢を(もたら)すに至った。


    引用文献
    • 高倉新一郎 (1942) :『アイヌ政策史』, 日本評論社, 1942