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『新羅之記録』, p.14
抑も往古は、此国、上二十日程、下二十日程、松前以東は陬川西は與依地迄人間住する事、
右大将頼朝卿進発して奥州の泰衡を追討し御ひし節、糠部津輕より人多く此国に逃げ渡って居住す。
彼等は薙刀を舟舫に結び付け、櫓櫂と為して漕ぎ渡る。
故に其因縁によって当国艋舴の車櫂は薙刀を象ると云ふ。
奥狄の舟近世迄櫂を薙刀の象に造るなり。
今奥狄の地に彼の末孫狄と為りて之に在りと云云。
亦實朝将軍之代強盗海賊の従類数十人搦め捕り、奥州外之濱に下し遣り、狄の嶋に追放せらる。
渡党と云ふは渠等が末なり。
亦其以後嘉吉三年の冬下國安東太盛季小泊の柴舘を落され渡海の後、跡を慕ひて数(多)の人来住し、今に於て其末孫の侍共之に在るなり。
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引用文献
- 『新羅之記録』,1645
- 北海道(編)『新北海道史 第7巻 史料1』, 北海道, 1969. pp.1-82.
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