Up 海上交通 作成: 2018-11-24
更新: 2018-11-24


    和人が本土から蝦夷に行く方法は,帆船 (和船) で蝦夷の湊まで人・物を運び,そこから陸上を進むか,(帆付き)こぎ舟で海上や川を進む,というふうになる。
    この方法を以てして蝦夷が「辺境」であり続けるのは,和船がひどく扱いにくいものだからである。
    それは,風まかせ,天候・潮・視界頼みの旅である。

      松田伝十郎 (1799), pp.79-81.
    同月廿日江戸出立、品川より政徳丸え乗組、出帆日和是なく、三日品川沖に滞船、

    同廿四日 [1799年3月24日] 朝東風にて同所出帆、同日相州浦賀湊え入船、同所に於て御船作事を加へ、

    四月十八日の朝卯辰の風にて同所出帆の處、沖合風筋宜からず、夜に入房州須の崎を乗抜、

    翌十九日仙臺領金花山近く乗寄し處、種々の亂風にて沖合凌がたく、(かじ)を直し、豆州網代へ向湊取いたすべき積にて(はしり)しに、又々向風に成、種々沖合まぎり居、鹿嶋(なだ)は乗拔(抜)るといへども汐行宜からず、船行も計りがたく、殊に雲霧深く、何方の沖合とも分らず、

    同廿一日朝少々雲霧も晴れ、遙に金花山相見へ、右山を目當に‥‥。
    夫より子の方へ針を向走り、

    同廿二日朝には南部領鍬ケ崎湊手前まで走る處、丑寅風に吹變じ、雨も催し、右湊へ入ベくと船方相働といへども、船足先え相すゝまず䑺戻し、同領釜石浦へ入船、大雨になり、當分出帆日和も相見ず滞船の積り、船方をも休息いたさせ、同所に於て風待、

    同月廿八日朝南風に付同所出帆の處、程なく東風に吹變じ、夕方まで湊口に懸居、暮時前西風吹出し、帆を巻凡十里程も走る處、風止、其上辰巳より汐行至てはやく、

    翌廿九日朝には出帆の湊釜石沖まで汐にながされ、六半時より南風に吹變じ、段々走り暮時まへ漸々同領鍬ケ崎 宮古と云 湊へ入船、此所は南部領一の大湊にて、是より下の方は澗入致すべき湊もなく、惣て下り船は此湊にて日和を見定め出帆のよし。御船も此所にて得と日和を定め、蝦夷地へ直渡しの積に舟方とも申出滞舶の處、引續き北風、東風のみにて出帆日和なく、暫く滞船になり、蝦夷地雇船追々此湊へ入船。餘り出帆日和なきゆへに、御船幷雇船のものども一同、所の神社え参籠、通夜いたし、是を日和申と唱へ、出帆日和なきときは、舟方とも右様祈るよし。然るところ

    六月七日比より日和もよふもよろしく、

    同月九日風筋も宜敷趣船手より申出、同所出帆。尤外に雇船も數艘同時に出帆、湊口より貳里程も走るところ、雲霧(くもきり)深く、前後左右とも一向相わからず、類船壹艘も見ず。子の針に居䑺るといへども、汐行(はげ)しく船足進みがたく相見へ、夜に入ても同様風筋宜からず、舟手のもの色々心配の様子に見へ、御船より立火をいたしても何方にも合火もなく、

    翌十日も同様雲霧ふかく、何れの仲合ともしれず、只(びょう)々といたし、地方は勿論類船をも身懸(みかけ)ず、宮古出帆晝夜四日䑺せしが、如此

    十二日より雨もふり出し、ますます雲霧ふかく、其上向風になり、種々(かじ)を直し、沖合まぎり居る處、船中一同疑惑を生じ、何れの針路に乗て可然やと評議におよベどもたれ一人針路を申出るものなく、尤御船頭露木元右衛門其外船手のものども蝦夷地は初てにて不案内なり。(より)て船中一同水をあび信心致し、方角を書付、いづれの針路を乗て然るべきやと紳慮を伺ふとて、船方の法を以(くじ)を取る處、子の針にのり申べしとの神告にて、夫より子走りに針を定め、神慮にまかせ䑺る處、

    十四日の明方に子の方に當り地山と覺しき裾通り、纔に雲霧はれ遙に相見へ、船中一同蘇生の心地にて、右山を目當に乗よすといへども、いまだ山の半ぷくは雲霧にて包み、何國の山と見定めがたく、いろいろ評議いたし、中には仙臺金華山にて有べき(など)といふものあり。然れば南部領官古出帆、晝夜五日も䑺しに、汐行に取られしやと區々の評議にて決しがたく、

    同日晝九時頃雲霧はれ、山のかたち相顕れ、蝦夷地の山と見定め、舶中一同相歓び、久々にて笑顔をも見、彼是致す内、丑の方に當り漁舟貳艘相見へ、まねきを出し呼懸るところ、壹艘は御船へ来るを見ば、蝦夷人貳人乗にて、其形、かしらは切かみ亂髪にて、眉毛一文字に生つゞき、耳には眞鍮様のものにて(こしらえ)たる環を下げ、身には獣の皮をもって拵たる物を着し、貳人とも同様にて甚(だ)見苦しき姿にて言語相分らず、互に言葉不通にして、地山の方へ指さし問ければ、タルマイ 地名 と答ふるに付、夷地の惣圖をもって引合せ見(る)に、タルマイ(たけ)と云地名あり。夷人の名をとへば、ルンケハラ、又壹人はリクイロカイと云。さすればタルマイと云所の土人なるべしと酒、飯等をあたへ遣し、夫より辰巳に當りエリモ崎 是は東地一番の出崎なり 相見へ、是は蝦夷地一番の出崎にて、廻船の䑺路の大難所にして、此出崎を乗拔ざる時は、たとへ難風に逢ふ共澗繋(まかゝり)の場所なきよし、船手甚心配、七時ころより未申の風ふき来り、卯辰に針を()へ走り、夜に入風いろいろにふき亂れ定がたく、夜中まぎり居、

    翌十五日朝五時前ころより北風吹来り向風に成り、午未と針路を直し、まぎり居、四時ころより風もなおり、卯の方へ針をむけ䑺る處、ひる九時比より又々雲霧起り、東西一圓不分、夜に入ても風いろいろふきかわりまぎれ居、いかにも雲霧ふかくして貳、三間先見わけがたく、エリモ崎を昨夜中にもかわせしや又は今日にも乗抜けしやと、船方のもの船の左右に出、波の(なる)音のみ聞濟し居。誠にもって空々として船方も氣力なく、乗船の相士は勿論病人のごとく、召連れし僕どもは一人もおき居ならず倒れおり、心細きありさまたとへべきよふなし。

    其日ひる八時頃雲霧少々はれ、地山相見る處、いまだ遙(か)(ふ)にエリモ崎また見へ、船中一同仰天のみして、夫より針を直し、風にまかせ漂ひ、尤地方も見し事ゆへ御船より吹流し或は御印等を建、または立火等いたしても地方に合火もみゑず夜に入る處、晝見置方に當り二ケ所に立火見へ、夫を力にまぎり居、

    翌十七日朝雲霧もはれ地方を見る處、咋日見おきし場所より一里餘も跡の方へ汐に ながれ居、朝五時頃より雨風ふき来り卯辰の方へ針をむけ走り、ひる九時半頃に漸々してエリモ崎を乗ぬけたり。此崎を替せし時、舟方一同信心致し、船形を(こしらえ)、帆形幷船印を紙にて造り、洗米、神酒等を積入海中へながしたり。是は舟子の古事のよし。幷御船の帆をすこしさげ乗通る。 是を禮帆と唱へ、尤此崎に限らず何方にても高山又は靈社等これある處はかくのごとくいたし乗通るを船手の古法と云。先々夷地第一の難所をも乗抜(け)、一同安心いたし、これまで船方骨折ひとかたならざることゆへ,相士一同より神酒と號し酒一樽船方へ遣し、気力をも引立。

    同日晝八時頃より午未の風にかわり、丑寅の方へ針を向(け)走り、夜に入るとますます風も強く、夜九時頃吹止み漂ひ、

    夜明十八日雲霧はれ、子丑の方へ針を向、地方より五、六里もはなれ沖合漂ひ、七時頃より雨天になり、夜中風筋不足まぎれ居、 翌十九日朝雲霧深く、地山一向見せず、風も不宜にて朝五半時ころ面楫(おもかじ)の方に浪音いたし、地方にや、離島にや、又は岩崎にでもあるべくやと、舟方俄に騒立、其上寅卯の風ふき来り、子に針を居へ䑺る處、晝九時前頃より卯辰の風に吹替り、丑寅へ走り、ひる八時過頃に辰巳の風よほどつよく吹出し、雲霧少々はれ、丑寅に當り大船貳艘沖(かかり)して居ると見ゆるに付、寅の方へ針をなをし䑺る處、右貳艘の内壹艘は帆を巻(き)、寅卯の方へ䑺行、壹艘は繋居る様子に見請、御船も寅卯へむけ走り、此地方はクスリ 地名 山にもあるべく、さすればアツケシ 地名 迄は近く相なり、殊にいまだ七時頃にも有ベく、風にまかせまぎりよせ、アツケシへとりつき申べくと、一同相談の上楫をなおし、午の方へ凡貳里ほどもまぎり出せし處、風も和ぎ、其上雨もよふに相なり、萬一此所にて時化(しけ)等もあるときは南部領迄も吹戻し申さずんば渡がたきよし。今晩は此沖につなぎ、日和直り次第アツケシへ廻し申べき積り、船中一同ひよ(評)議の上なをまた楫をなおし、タ七半時頃地方近く乗寄せ相繋る處、地方よりに船壹艘乗来り申述るは、當所はクスリと申ところにて通詞佐兵衛と申ものを以て此所まで別條なく着船の(よろこび),且今日大河内善兵衛着にて繁多にこれあり引舟さし出さずよし、詰合支配勘定竹尾吉十郎、同菊地惣内よりの口上の趣申述る。大河内善兵衛當所着にては乗船のもの上陸對面申べくと評議の處、宮古出帆後いづれも甚(だ)(ひん)長髪なり。僕の内壹人も髪月代(さかやき)するものなく、相士元十郎、次太夫兩人の髪月代は仁三郎致し、夫より支度相とゝのひ、元十郎、仁三郎、次太夫 二郎左衛門は船氣(酔力)にておきがたく,御船に残る 橋船にて上陸、詰合竹尾吉十郎、菊地惣内へ面會、夫より善兵衛(え)對面、御船別條これなき旨申述、夜に入御船へ引取、同夜此所に繋居、

    翌廿日寅卯の風、夫より卯辰の風に吹變り出帆成がたく滞船、乗組一同宮古出帆後湯水をもつかわず且僕どもは船氣にて臥居、病人同様のことゆへ上陸いたさせ土氣踏せる方然るべくと、ひる時頃一同上陸、詰合へ談じ入湯いたし、幷當所揚の諸色も御船に積入来るゆへ、詰合へ談じ荷揚申付る。夕刻に至り御船へ乗移り、其夜も同所に滞舶、夜五つ時頃より高波に相成、其上雨降り出し、氣色宜からず、

    翌廿一日、午の風にて雲霧深く至て波高く、出帆成がたく、晝八時頃より増々猛風怒浪ゆへ、碇をまし繋居、夜中も同様、

    翌廿二日の朝、子の風吹来り、波も穏ならず、出帆なりがたく滞舟、元十郎、僕兩人船氣の上勝れず、願に仍て上陸させ、會所 御役人詰所なり の介抱を請、少しも快方ならば陸路アツケシへ相廻し申べき旨申付る。

    翌廿三日丑寅の風吹来る。出帆ひよりなく滞船。晝時頃陸より 御小人目付 八田直四郎御船へ来り、 御徒目付 比企市郎右衛門、御小人頭和田兵太夫當所へ来着のよし相咄す。夫より上陸、右の面々へ對面、即刻御船へ戻る。

    翌廿四日朝四時ころ氣色なをり同所出帆、クスリ崎を替し、寅卯の方へ針をむけ走り、黄昏(比)風も吹止み波も穏に成、アツケシ澗口より壹里ほどにして澗入り成がたく繋居、夜五時頃少々風も吹来り帆を巻䑺る處、四時頃又々和波になり沖繋りいたし、

    翌日五日雲霧深く地山一向見へず繋居、‥‥

    翌廿六日も同様雲霧深く雨気にて地山見へず、澗入成がたく滞舟、

    翌廿七日同様にて、晝八時ころ少々雲霧はれしゆへ、船支度致させし處、風もなく夜四半時頃又々碇をおろし沖繋、

    翌廿八日も同様雲霧深く、地山一圓に見へ難く、殊に土用波にて船中荒く、鍋釜等を飛(ば)し舟方等もはたらきえず、出帆成がたく滞舟。夜八時頃(くじら)夥敷浮出で汐を吹(く)。大魚の事ゆへ御船へ近よる時は怪我等もあるべくやと、船方代々(かわるがわる)舶縁をたゝき、或は碇を打ならし、夜の明る迄これを追ふ。

    翌廿九日 [6月29日──品川出帆から3か月経過] の朝雲霧もはれ西風にて帆を巻、晝九時頃アツケシへ着岸す。澗掛の船々より傳馬にて挽舟に来り、陸よりも小舟にて番人 是は蝦夷地はたらきの和人を云なり。 一人乗来り、當所詰合より着船の欣として差越すの趣申述る。挨拶して歸す。引續て相士一同傳馬にて上陸致し、會所へ出る處、詰合 御勘定 太田十右衛門、御普請役 戸田又太夫、御持同心 木津半之丞右三人へ面會、御船別條なく着船のおもむき申述、‥‥



    引用文献
    • 松田伝十郎 (1799) :『北夷談』
      • 高倉新一郎編『日本庶民生活史料集成 第4巻 探検・紀行・地誌 北辺篇』, 三一書房, 1969. pp.77-175

    参考ウェブサイト