Up 『続日本紀』 作成: 2019-03-03
更新: 2020-02-03


      卷第四 和銅二年三月, 壬戌 (五日)
    陸奥越後二國蝦夷、野心難馴、屡害良民。
    於是遣使、徴發遠江、駿河、甲斐、信濃、上野、越前、越中等國、
    以 左大弁正四位下巨勢朝臣麻呂 爲 陸奥鎭東將軍、
    民部大輔正五位下佐伯宿祢石湯 爲 征越後蝦夷將軍、
    内藏頭從五位下紀朝臣諸人 爲 副將軍。
    出自兩道征伐。因授節刀并軍令。


      卷第七 靈龜元年十月, 丁丑 (二十九日)
    陸奥蝦夷第三等 邑良志別君(おらしわけのきみ) 宇蘇弥奈(うそみな)等言。
    親族死亡子孫數人、常恐被狄徒抄略乎。
    請 於香河村 造建郡家 爲編戸民、永保安堵。
    又蝦夷須賀君古麻比留等言。
    先祖以來。貢獻昆布。常採此地。年時不闕。今國府郭下。相去道遠。往還累旬。甚多辛苦。
    請於閇村。便建郡家。同百姓。共率親族。永不闕貢。並許之。


      卷第七 靈龜二年九月, 乙未 (二十三日)
    從三位中納言巨勢朝臣萬呂 言。
    建出羽國 已經數年、吏民少稀、狄徒未馴。
    其地膏腴、田野廣寛。
    請 令 隨近國民 遷於出羽國、教喩狂狄、兼保地利。
    許之。
    因 以 陸奥國置賜(おいたみ)、最上二郡、及信濃、上野、越前、越後四國百姓 各百戸 隷出羽國焉。

    (直木孝次郎[訳]『続日本紀 1』, p,183) 従三位で中納言の巨勢朝臣万は〔つぎのように〕言上した。
    出羽国を建ててすでに数年を経た (出羽建国は和銅五年九月二十三日条) にもかかわらず,官人や人民が少なく、狄徒 (えみし) もまだ〔朝廷の統治に〕なついていない状態でありますが、その土地はよく肥え、田野も広大で余裕があります。
    どうか、近くの国の民を出羽国に移り住まわせて、狂暴な狄 (えみし) を教えさとし、あわせて土地の収益を維持できるようにしたいと要望します。
    これを許した。
    それで陸奥国の置賜(おいたみ)・最上の二部 (この二郡を出羽国に付属させたことは、和銅五年十月一日条にみえる) と、信濃・上野・越前・越後の四国の人民を、百戸ずつ出羽国に付属させた。


      卷第八 養老四[720]年 正月, 丙子 (二十三日)
    (直木孝次郎[訳]『続日本紀 1』, p.214)
    遣 <渡嶋津軽津司 従七位上 諸君鞍男(もろのきみくらお) 等六人> 於 靺鞨国,観其風俗。


      卷第八 養老四年六月, 戊戌 (十七日)
    詔曰。
    蠻夷爲害,自古有之。
    漢 命 五將 驕胡 臣服。
    周 勞再駕,荒俗 來王。
    今西隅小賊。怙乱逆化。屡害良民。因遣持節將軍正四位下中納言兼中務卿大伴宿祢旅人。誅罸其罪。盡彼巣居。治兵率衆。剪掃兇徒。酋帥面縛。請命下吏。寇黨叩頭。爭靡敦風。然將軍暴露原野。久延旬月。時属盛熱。豈無艱苦。使使慰問。宜念忠勤。


      卷第九 養老六年四月, 乙丑 (二十五日)
    太政官奏曰。
    廼者。邊郡人民。暴被寇賊。遂適東西。流離分散。
    若不加矜恤。恐貽後患。
    是以聖王立制。亦務實邊者。蓋以安中國也。
    望請。
    陸奥按察使管内。百姓庸調浸免。勸課農桑。教習射騎。
    更税助邊之資。使擬賜夷之祿。
    其税者。毎卒一人。輸布長一丈三尺。濶一尺八寸。三丁成端。
    其國授刀兵衛衛士及位子帳内資人。并防閤仕丁。采女仕女。如此之類。皆悉放還。各從本色。
    若有得考者。以六年爲叙。一叙以後。自依外考。
    即他境之人。經年居住。准例徴税。
    以見來占附後一年。而後依例。
    又食之爲本。是民所天。隨時設策。治國要政。
    望請。
    勸農積穀。以備水旱。
    仍委所司。差發人夫。開墾膏腴之地良田一百万町。
    其限役十日。便給粮食。所須調度。官物借之。秋收而後。即令造備。
    若有國郡司 詐作逗留 不肯開墾,並即解却。雖經恩赦,不在免限。
    如部内百姓 荒野閑地 能加功力 收獲雜穀三千石已上,賜勳六等。一千石以上,終身勿事。
    見帶八位已上加勳一轉。
    即酬賞之後。稽遲不營。追奪位記。各還本色。
    又公私出擧。取利十分之三。
    又言,用兵之要 衣食爲本。鎭無儲粮,何堪固守。
    募民出穀,運輸鎭所,可程道遠近爲差。委輸以遠二千斛,次三千斛,近四千斛。授 外從五位下。
    奏可之。
    其六位已下 至八位已上 隨程遠近運穀多少 亦各有差。語具格中。

    (直木孝次郎[訳]『続日本紀 1』, pp,247-249)
    太政官は〔つぎのように天皇に〕奏した。
    このごろ、辺境の郡に住んでいる人民たちは、にわかに外敵〔の侵略〕をうけ、そのためついに西や東に逃げまどい、流浪し分散しています。
    もし今〔彼らに〕あわれみと恵みを加えなければ、恐らく後に悪影響をのこすことでしょう。
    それゆえに聖王が制度をたてるについて、辺境〔の人民の生活〕を充実させることにも努める
    のは、思うにこの中国 (蛮夷の国に対する中華の国。ここでは日本をさす) を安んずるためでありましょう。
    〔そこで〕つぎのように請願します。
    陸奥按察使(あぜち)が管轄する地域内の人民の庸・調をますます免除して、〔百姓に〕農耕と養蚕をわりあてて勧め行なわせ、弓を射る術と乗馬を教習し、さらに辺境を援助する財源を税として取り、〔これを〕蝦夷に賜う禄にあてさせたいと思います。
    その税は、〔按察使管内の〕兵卒一人につき長さ一丈三尺、幅一尺八寸の麻布を出させることにし、三人分〔の布〕で一たん(ルビ)とします。
    〔つぎに〕陸奥の国出身の授刀(たちはき)寮の兵衛 (舎人に同じか。兵衛の和訓はトネリ。授刀寮は慶雲四年七月二十一日条参照)・衛士、及び位子 (巻四注一八参照)・帳内・資人、ならびに防閤(ぼうこう) (養老三年十二月七日条参照)・仕丁、采女(うねめ)仕女(しじょ) (諸国から中央に徴集され、裁縫・洗濯・炊事など宮中の雑役に使役される女性) など、この類の人びとは全員帰国させて、もとの地位にもどすことにします。
    もし〔彼らのなかに〕考 (官吏としての勤務評定をうける資格) を得ている者がいるならば、六年間〔の評定〕によって位を授けることにし、一度位を授けたならそれ以後は外考 (地方官としての勤務評定で、八〜十年ごとに叙位される。巻三注四五参照) とします。
    そして他の土地の人びとが〔陸奥国に来て〕、何年も居住しているならば、従来の例に従って税
    を徴収する、現在、移住して来て土地を占めた場合は、一年間税を免除し、以後は従来の例によ〔り徴税す〕る、というようにしたいと思います。
    また、食物は人民にとって最も大切なものであります。
    〔それ故、食物を確保するために〕時宜にかなった方策をうち出すことは、国を治めるための重要な政策です。
    〔そこで〕つぎのように請願します。
    農業を奨励して穀を蓄積し、それによって水害や旱魃(かんばつ)に備えますが、ついては所司に委任して人夫(にんぷ)を徴発し、肥沃な土地の良田百万町を開墾したいと思います。
    そして〔人夫の〕労役は十日を限度とし、食料を支給し、使用する道具類は官物を借し与えることにし、秋の収穫ののちすぐさま〔それらの道具類を農民たちに〕造らせ準備させます。
    もし、国司や郡司のなかで、(いつわ)って〔この仕事を〕遅らせ、(あえ)て開墾しない者があれば、〔国司・郡司は〕両方ともすぐさま解任することにします。
    〔また彼らは〕恩赦に会ったとしても詳す範囲には入れません。
    もし、国内の百姓のなかで、荒野や未耕地によく労力を加えて〔開墾し〕、雑穀を三千石以上収穫したときには、勲六等を賜い、一千石以上のときには、終身租税負担を免除したいと思います。
    現に八位以上の位階をもっておれば、勲位一段階を加えることにします。
    〔しかし〕褒美の賞をもらってのち、仕事を怠って〔開墾地の〕耕作を停止したならば、位記 (位階授与の証書) を返還させ、もとの地位にもどします。
    また、公私の出挙(すいこ) (稲や銭などの利息付き貸付け) の利率は三割にしたいと思います。 また、兵士を用いるのに肝心なのは衣と食を根本とすることだと言います。
    鎮所 (蝦夷鎮定の拠点となる所。多賀城の前身か) に食料のたくわえがなければ、どうして固く守ることができるでしょうか。
    〔そこで〕人民に募って穀を出させて、鎮所に運輸させ、その道程の遠近をはかつて〔遠・中・近の〕等差を定めることにします。
    そして積み運んだ量が〔鎮所より〕遠ければ二千(こく)、次に遠ければ三千斛、近ければ四千斛で、それぞれ出した者に、外従五位下の位を授けたいと思います。
    〔天皇は太政官の〕奏を許した。
    六位以下、八位以上〔の位階の授与〕については、〔鎮所までの〕道程の遠近や運輸する穀物量の多少に随って等差があった。
    〔これについては〕(きゃく)の中につぶさに語られている。


      卷第九 養老七(723)年八月, 己夘 (十七日)
    出羽國司 正六位上 多治比眞人家主 言。
    蝦夷等惣五十二人,功効已顯,酬賞未霑,仰頭引領,久望天恩。
    伏惟。
    芳餌之末,必繋深淵之魚。重祿之下,必致忠節之臣。
    今 夷狄愚闇 始趨奔命,久不撫慰 恐二解散。
    仍 具状 請裁。
    有勅。
    隨彼勳績,並加賞爵。

    (直木孝次郎[訳]『続日本紀 1』, p.258)
    出羽国司・正六位上の多治比真人家主は〔つぎのように〕言上した。
    蝦夷(えみし)らすべて五十二人は〔征討に際しての〕功績がすでに顕著ですが、いまだに褒賞の恩恵にあずかつておらず、〔彼らは〕くびを長くして天恩が下されることを長らくの間切望しています。
    謹んで思いますのに、よい餌を付けて釣れば必ず深い淵にいる魚も捕えることができ、俸禄を重くすれば必ず忠節を尽くす家来があらわれる〔といいます〕。
    今、この愚かな夷狄(いてき) (未開の人をさす蔑称) も、やっと君命のままに奔走するようになりましたが、久しく〔彼らを〕いたわりなぐさめなければ、再び〔君命に従わず〕散り散りになることでしょう。
    そこで〔蝦夷らの褒賞の件について〕この書状につぶさに述べて裁定を得たいと思います。
    〔天皇は〕勅して、その功績に応じてそれぞれ褒美と位を与えた。


      卷第九 神龜二(725)年, 閏正月, 己丑
    陸奧國俘囚百四十四人 配于 伊豫國,五百七十八人 配于 筑紫,十五人 配于 和泉監 焉。


      卷第十 天平二年正月, 辛亥 (二十六日)
    陸奧國言。

    部下 田夷村 蝦夷等,永悛賊心,既從教喩。

    請 建 郡家 于 田夷村,同爲百姓者。
    許之。

    (直木孝次郎[訳]『続日本紀 1』, p.311,312)
    陸奥国が〔つぎのように〕言上した。
    「管轄下にある田夷村の蝦夷らは、久しい以前から反逆心をすてて、すでに教導に従っています。
    〔そこで〕田夷村に郡役所をつくり〔新郡をたてて〕、〔蝦夷を〕百姓 (公民) にしたいと思います」と。
    これを許可した


      卷第十二 天平九[737]年 四月, 戊午 (十四日)
    (直木孝次郎[訳]『続日本紀 2』, pp.45-48)
    陸奥国に派遣された持節〔征夷〕大使で従三位の藤原朝臣麻呂らが〔つぎのように〕言上した。
     去る二月十九日に陸奥国多賀(たが)に到着し、鎮守〔府〕将軍で従四位上の大野朝臣東人と協議し、また、常陸(ひたち)上総(かずさ)下総(しもふさ)・武蔵・上野(こうづけ)下野(しもつけ)等六ヵ国の騎兵、総計千人を召して、海ぞいと山中の両道を開かせましたので、夷狄(いてき)たちはことごとく疑いと畏怖の念を(いだ)いております。
    そこで、農耕に従事している蝦夷(えみし)で遠田郡の郡領・外従七位上の遠田君雄人(おひと)を海ぞいの道より、帰服した蝦夷の和我(わが)計安塁(けあるい)を山間の道よりそれぞれ派遣し、遣使の趣旨を告げてなだめ諭し、これを鎮撫しました。
    そして勇敢で強健な者百九十六人を選んで将軍の東人に委ね、四百五十九人を玉造などの五つの柵に分属させました。
    麻呂らは残りの三百四十五人を率いて多賀柵を守備し、副使・従五位上の坂本朝臣宇頭麻佐は玉造柵 (古川市東大崎名生館遺跡か) を守り、判官・正六位上の大伴宿禰美濃麻呂(みのまろ)は新田柵 (宮城県遠田郡田尻町八幡付近か) を、〔陸奥〕国の大掾・正七位下の日下部(くさかべ)宿禰大麻呂は牡鹿(おじか)柵 (宮城県桃生(もものう)郡矢本町赤井星場遺跡か) を守備し、その他の柵は従来どおり鎮守いたしておりました。
    〔二月〕二十五日に将箪東人が多賀柵より〔賊地に向けて〕進発しました。
    四月一日、〔将軍東人は、征夷〕使の配下の判官・従七位上の紀朝臣武良士(むらじ)らと〔東人に〕委ねられた騎兵百九十六人、鎮〔守府〕の兵四百九十九人、陸奥国の兵五千人、帰服した夷狄二百四十九人を率いて、管内の色麻(しかま)柵 (宮城県加美郡中新田町城生遺跡か) を発し、その日のうちに出羽国大室駅 (山形県尾花沢市) に到達いたしました。
    〔一方〕出羽の国守で正六位下の田辺史難波(たなべのふひとなにわ)は、管内の兵五百人と帰服した夷狄百四十人を率い、この〔大室〕駅に滞在し待機すること三日で、将軍東人〔の軍勢〕と合流して賊地に入り、道を開拓しながら行軍しました。
    ただ賊地は雪が深く(まぐさ)は確保しにくく、そのため、雪が消え草が生えるのをまって、また改めて軍を遣わすことにしました。
     同月十一日、将軍東人が引き返して多賀柵に帰還しました。
    〔東人〕自らが指導して新たに開通させた道は全長百六十里、〔その間〕あるいは石を砕いたり樹を保ったり、あるいは(たに)を埋め峯をこえて通しました。
    賀美(かみ)郡から出羽国最上(もがみ)郡玉野 (尾花沢市の地であろう) に至る八十里は、全て山野で、地形は険しいとはいえ、人馬の往復に大きな艱難(かんなん)はありません。
    玉野から賊地の比羅保許(ひらほこ)山に至る八十里は、地形は平坦で危うく険しい個所は存在いたしません。 〔その先は未踏査ですが、帰順した〕夷狄らは、
     「 比羅保許山から雄勝村に至る五十里余りは、その間は平坦です。ただ二つの河があって、増水するたびに両方とも船を用いて渡らなければなりません」
    といっております。
     四月四日〔将軍東人らの〕軍勢は賊地内の比羅保許山に駐屯しましたが、これより先、田辺〔史〕難波の書状がきて、
     「 雄勝村のさきで服従した蝦夷の長ら三人が投降し、拝伏して、
     『 官軍が我々の村に入ろうとされていると承ります。〔そのような事態になれば〕不安をおさえきれませんので、降伏しようとやって参りました』
    といっております」
    と伝えてきました。
    〔しかし〕東人は、
     「 投降の夷狄にはたいそう悪だくみが多く、その言葉も変ることがある。安易に信ずることができない。重ねて帰順したいというならば、その時点で合議しよう」
    といいました。
    〔それに対して〕難波は建議して、
     「 軍勢を進めて賊地に入るということは、夷狄を教え諭し、城柵を築いて民を〔移して〕住まわせるためです。何も兵を苦しめ、帰順する者を傷つけ殺そうというのではありません。もし投降の請願を許さず、無視し圧迫して直ちに進攻したなれば、帰順した夷狄たちは恐れ(うら)んで山野に遁走するでしょう。 〔それでは〕労多くして功少ないこととなり、おそらく上策とはいえません。 〔いまは〕官軍の威勢を示しておいて、この地から引き揚げるにしくはないでしょう。 そのあとでこの難波が帰順の幸せを諭し、寛大なめぐみで(なつ)けてみせましょう。 そうすれば則ち、城郭は守備しやすく、人民は永く安らかになるでしょう」
    といったので、東人はそのとおりであると考えました。
    また東人の本来の計略では、早期に賊地に入り、耕作して穀物を貯え、兵糧を搬送する費用を省くことにありました。
    しかし今春は例年に倍する大雪が降り、これによって、早期に入って耕作することができなくなりました。
    天の与えた条件がこのようなので、すでに本来の意向とは違ってきています。
    一体、城郭を造営することぐらいはすぐにもできます。 しかし城を守るのは人間であり、人間の生存は食糧によります。 耕作の時候を失えば、何を〔食糧として兵士に〕給することができましょうか。
    さらに兵士というものは、利益をみて行動し、利益がなければ動きません。
    それ故に、軍勢を引き揚げて帰り、今後をまって始めて城郭を造営することにします。
    ただし東人は、自ら賊地に進攻するため、将軍として多賀柵を守備する許可を請うています。 〔しかし〕いま新道は既に開通し、地形を直接に視察しましたので、後年になって、東人が自ら攻め入ることはしなくても、事は成就させることができます。
     臣下たる麻呂らは愚かで事情に明るくはありませんが、東人は久しく将軍として辺要の地におり、作戦が的中しなかった(ためし)はほとんどありません。 のみならず、自ら賊軍の地に臨み、その形勢を熟知し、深慮遠謀の上で、このような〔作戦を〕企てました。
    〔そこで〕謹んで事の次第を記し、天皇の裁決をおうかがいします。
     ただこのごろは〔情勢も〕平穏で、農作業の時節にも当たっておりますので、徴発している兵士は一旦解放し、その一方で〔以上のような〕奏上をいたすところです。


      卷第三十 神護景雲三(769)年十一月, 己丑
    陸奥國牡鹿郡 俘囚 外少初位上勲七等 大伴部押人 言、
    傳聞、押人等 本是 紀伊國名草郡片岡里人也。
    昔者 先祖 大伴部直 征夷之時、到於小田郡嶋田村 而居焉。
    其後、子孫 爲夷 被虜、歴代 爲俘。
    幸 頼聖朝 撫運 神武威邊、拔彼虜庭 久爲化民。
    望請、除 俘囚 名、爲 調庸民。
    許之。


      卷第三十 寶龜元(770)年夏四月,癸巳朔
    陸奥國 黒川、賀美等一十郡俘囚 三千九百廿人 言曰、
    己等父祖、本是王民、而爲夷所略、遂成賎隷。
    今既 殺敵 歸降、子孫蕃息。
    伏願、除 俘囚之名、輸 調庸之貢。
    許之。



    参考文献
    • 『続日本紀』
      • 直木孝次郎・他 [訳注]『続日本紀 1』(巻第1〜巻第10), 平凡社, 1986
      • 直木孝次郎・他 [訳注]『続日本紀 2』(巻第11〜巻第20), 平凡社, 1988
      • 维基文库