アイヌ文化を進歩史観からではなく相対的に捉えようという立場は,それ自体ではイデオロギーからフリーなわけではない。
つぎは,<相対的に捉える>のふうを見せながら,アイヌ解釈に平等主義イデオロギーと抵抗史観を持ち込むというものである:
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瀬川拓郎 (2007), pp.11,12
またピエール・クラストルは、農耕民のなかに狩猟採集民へ逆行・退行した人ぴとが存在する事実に注目し、そこに未開社会における国家の拒否を読みとる。クラストルによれば、未開社会には歴史がないのではなく、位階秩序・権力・服従・統合・国家への抵抗の過程こそ歴史とされる。これにしたがえば、北の狩猟採集民は、異文化の宝が生みだす不平等の流れに抗うことはできなかったものの、国家になる一線を越えることには抵抗し、踏みとどまったといえるだろう。
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市川光雄は、アフリカの狩猟採集民が霊長類の自然状態の不平等を否定し、努力のうえに平等な社会をつくりあげてきたとして、そこには社会が不平等になることを防ぐさまざまな知恵が結集していると指摘する。また網野善彦は、古代以降の社会が支配と所有にとりこまれ、自由と平等を失ってきたことを示している。 とすれば、そもそも私たちの歴史自体、はたして進歩だったといいきれるのだろうか。
いずれにせよ北の狩猟採集民の社会は、国家になりそこねたのではなく、農耕をうけいれる忍耐力と組織力を欠いていたわけでもなかった。かれらは私たちの後方で立ち止まっていたのではなく、私たちとは異なる道をあゆんできたのだ。
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自然主義者は,アイヌを自然主義者に見立てて,アイヌにシンパシーを持つ。
平等主義者は,アイヌを平等主義者に見立てて,アイヌにシンパシーを持つ。
〇〇主義者であるアイヌは,生き方を<選択>する者である。
そこで,アイヌが文字をもたなかったことも,彼らの主義による<選択>ということになる:
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同上, pp.11,12
アイヌが文字をもたなかった事実も、かれらが国家をもたなかったことと関連しているのかもしれない。文字の使用は国家社会の成立に深くかかわっていると考えられているからだ。
そして、アイヌに国家がなかった事実を歴史的な停滞と即断できないのと同様、文字がなかった事実についても、それがネガティブな意味しかもたないことなのか、あらためて考えてみる必要がある。
たとえば千葉大学の中川裕中川裕は、アイヌの古老が一様に博識で物覚えがいいのは、忘れてしまえば二度と取りもどせないという気持ちでいつでも物事に接してきたからであり、かれらは文字を知っていても自分の記憶を書き残そうとはしなかった、とのべている。
アイヌは紙に書かれた文字ではなく、人が発する生きた言葉を至上のものとし、それを聞き逃すまいと耳を傾け、記憶に刻みこんできたのだ。人間としての教養や生き方が、文字の使用によって評価できるようなものではないことを、このエピソードはよく示している。
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カラスが貯食の場所を憶えているのは,忘れてしまえば二度と取りもどせないという気持ちでいつでも物事に接しているからではない。
カラスが文字をもたないのは,自分が発する生きた声を至上のものとしているからではない。
ここには,<選択>はない。
アイヌの「国家をもたない」「文字をもたない」も同様である。
アイヌは,「国家をもつか・もたないか」「文字をもつか・もたないか」の選択肢を迫られたことはない。
アイヌを〇〇主義者にするのは,アイヌの買いかぶりである。
買いかぶりは,蔑視の裏返しである。
事実が気にくわないから買いかぶるのである。
〇〇主義者であると買いかぶられるのは,ばかにされるのと同じである。
アイヌは,〇〇主義者よりはるかにマシなものである。
アイヌは,文字をもたないで済む生き方が,自分のニッチになった。
文字をもつ契機は,この生き方には無い。
よって,アイヌは文字をもたなかった。
事実は,これ以上でも以下でも無い。
引用文献
- 瀬川拓郎 (2007) :『アイヌの歴史──海と宝のノマド』(講談社選書メチエ), 講談社, 2007.
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