Up ユカルクル 作成: 2019-11-21
更新: 2019-11-21


    ユカルを能く語る者を,ユカルクル yukar-kuru と謂う。
    ユカルは長編なので,アイヌ学者のうちにはユカルクルを『古事記』の稗田阿礼に比したりする者がいる。
    しかしこれは思い違いである。

    古事記の内容を憶えるのは,大量の固有名詞とそれらの関係をきっちり憶えることである。
    これは,円周率を1000桁まで憶える類である。
    これができるのは特殊な頭脳の持ち主である。
    ところで,1から1000まで言うのは,子どもでもできる。
    何が違うかというと,後者は<生成>ができるということである。
    ユカルは,この場合である。

      久保寺逸彦 (1956), pp.156-158
    かつて私は、1931(昭和6)年の夏、日高・平取の平村コタンピラ (1863、文久3年生まれという) 老伝承詩人から「Naukep-kor-kur (毒鉤の魔神)」というユーカラを筆記したことがあったが、長い夏の日、朝は七時ころから、暗くなるまで、昼飯ぬきで書きつづけて (筆記できる程度で、節なしで、ゆっくり言ってもらったので、実際の演奏よりは、はるかに手間どる)、五日もかかって、やっと書き終えた経験がある。
    一句一句のラインを数えて見たら、三万千余行もあって、いまさらのように驚いたのであった。
    ことの序でに、コタンピラ翁に、知っているユーカラの題目 aekirushi を訊ねて見ると、ざっと二十余曲、
    これを筆記するとしたら、二、三年続けて書いても書き了えられるかどうかというほどの量である。
    私は、しみじみ、筆録するということが、口でいうことに比して、いかにもどかしく、手間どるものかということを痛感したのであった。
    私は「ユーカラ」9曲、「ハウ」4曲、「婦女詞曲 Mat-yukar, Menoko-yukar」15曲ほど、採集した経験から、アイヌの伝承詩人の伝承には、常套句の反覆ということが、いかに記憶を便ならしめているかということを知った。
    アイヌの詞曲の表現には、もちろん、同じく雅語を用いても、地方的な違いもあり、個人的にも違いもあるが、少なくとも、その表現の語句は、驚くべきほど常套的である。
    常套的な表現の語句は、ある場合の叙述には、必ず用いられなければならぬ。
    聴く方でも、およそ、次はいかなる語句が謡い出されるかほぽ見当がつく。
    例えば、小英雄と他の数人の豪傑とが、戦闘するとなると、その争闘の仕方は何人とやっても、同一なのである。
    ただ変わるのは、その対手の豪傑の固有名詞だけ、あるいはその争闘の行われる場所だけである。
    それを覚えるだけで、一定の叙述表現をもって演奏すれば、場面はどんどんと進行していくことになる。
    私も、いくつか書いているうちには、常套句も記憶できるものも出て来るので、伝承者のちょっと休憩しているうちに、何行か先を書いて置いて、伝承者が始める前に読んで聴かせて、伝承者をびっくりさせたことがある。

     『KUTUNE SIRKA』/鍋沢元蔵

    実際,以下の引用文は,ユカルクルがさほど特別な存在ではないことを示している。

      菅江真澄 (1791), pp.551-555.
    夜さりになれば、アヰノどもの来つゝ音曲(ユウガリ)をかたる。

      砂沢クラ (1983), p.140
     伏古コタンは十戸足らずの小さな部落でしたが、部落の男たちは、みな雄弁家で、カムイノミ (神への祈り) もユーカラ (長編英雄叙事詩) もシノッチャ (叙情曲調) も、とてもいい声で上手にやりましたし、神を信じ、アイヌの昔からの振り合い (伝統、習慣) も大事にしていました。
     カムイノミもユーカラも、昔からの振り合いも、年寄りが若い人に特別教えるということはなく、クマ送りやイアレ (祖先供養) などの行事の時や、畑仕事の出来ない雨の日や冬の日などに昔話をし合って楽しむなかで、知らず知らずのうちに覚えるのです。


    ちなみに,邦楽でユカルに似たものを求めれば,「口説き」がある。
    以下長文になるが,「源平軍談」を引く:
      Webサイト「娘への遺言」から引用
    宇治川先陣 佐々木の功名 (初段)
    嘉肴あれども 食らわずしては (ハイハイハイ)
    酸いも甘いも その味知らず (ハイハイハイ)
    武勇ありても 治まる世には (ハイハイハイ)
    忠も義心も その聞えなし (ハイハイハイ)
     (以下掛け声同様)
    ここにいにしえ 元暦の頃 旭将軍 木曾義仲は
    四方(よも)にその名を 照り輝きて 野辺の草木も 靡かぬはなし
    されば威勢に 驕(おご)りが添いて 日々に悪逆 いや憎しければ
    木曾が逆徒を 討ち鎮めよと 綸旨(りんし)院宣(いんぜん) 蒙りたれば
    お受け申して 頼朝公は 時を移さば 悪しかりなんと
    蒲の範頼 大手へまわし 九郎義経 搦手(からめて)よりも
    二万五千騎 二手に分かる 時に義経 下知(げじ)して曰く
    佐々木梶原 この両人は 宇治の川越え 先陣せよと
    下知を蒙り すわわれ一と 進む心は 咲く花の春
    頃は睦月の 早末つかた 四方の山々 長閑(のど)けくなりて
    川のほとりは 柳の糸の 枝を侵(した)せる 雪代水に
    源太景季(かげすえ) 先陣をして 末の世までも 名を残さんと
    君の賜いし 磨墨(するすみ)という 馬にうち乗り 駆け出しければ
    後に続いて 佐々木の四郎 馬におとらぬ 池月んれば
    いでや源太に 乗り勝たんとて 扇開いて うち招きつつ
    いかに梶原景季殿と 呼べば源太は 誰なるらんと
    思うおりしも 佐々木が曰く 馬の腹帯(はらび)の のび候ぞ
    鞍をかえされ 怪我召さるなと 聞いて景季 そはあやうしと
    口に弓弦(ゆんづる) ひっくわえつつ 馬の腹帯に 諸手をかけて
    ずっっと揺りあげ 締めかけるまに 佐々木得たりと うちよろこんで
    馬にひと鞭 はっしとあてて 先の源太に 乗り越えつつも
    川にのぞみて 深みへ入れば 水の底には 大綱小綱
    綱のごとくに 引き張り廻し 馬の足並 あやうく見えし
    川の向こうは 逆茂木(さかもぎ)高く 鎧(よろ)うたる武者 六千ばかり
    川を渡さば 射落とすべしと 鏃(やじり)揃えて 待ちかけいたり
    佐々木もとより 勇士の誉 末の世までも 名も高綱は
    宇治の川瀬の 深みに張りし 綱を残らず 切り流しつつ
    馬を泳がせ 向こうの岸へ さっと駆けつけ 大音(だいおん)あげて
    宇多の天皇 九代の後の 近江源氏の その嫡流に
    われは佐々木の 高綱なりと 蜘蛛手(くもで)加久縄(かぐなわ) また十文字
    敵の陣中 人なきごとく 斬って廻りし その勢いに
    敵も味方も 目を驚かし 褒めぬ者こそ なかりけれ

    粟津の合戦 巴がはたらき (二段目)
    かくて宇治川 先陣佐々木 二陣景季 なお続きしは
    秩父足利 三浦の一家(いっけ) われもわれもと 川うち渡り
    勇み進んで 戦いければ 防ぐ手だても 新手の勢に
    備えくずれて 乱るる中に 楯の六郎 根の井の小弥太
    二人ともはや 討死にすれば これを見るより ちりちりばっと
    風に吹き散る 木の葉のごとく 落ちて四方へ 逃げ行く敵を
    追うて近江の 粟津が原に 木曾の軍勢 敗北すれば
    鬨(とき)をあげたる 鎌倉勢に 巴御前は この勝鬨(かちどき)に
    敵か味方か おぼつかなしと 駒をひかえて ためろうところ
    返せ戻せと 五十騎ばかり あとを慕うて 追い来る敵(かたき)
    巴すわやと 駒たてなおし 好む薙刀 振り回しつつ
    木曾の身内に 巴と呼ばる 女武者ぞと 名乗りもあえず
    群れる敵の 多勢が中を 蹴立て踏み立て 駈け散じつつ
    とんぼ返しや 飛鳥(ひちょう)の翔(かけ)り 女一人に 斬り立てられて
    崩れかかりし 鎌倉勢の 中を進んで 勝武者一騎
    声を張り上げ 巴が武術 男勝りと 聞きおよびたり
    われは板東 一騎の勇士 秩父重忠 見参せんと
    むずと鎧の 草摺りを取り 引けば巴は にっこと笑い
    男勝りと 名を立てられて 強み見するは 恥ずかしけれど
    板東一なる 勇士と聞けば われを手柄に 落としてみよと
    云うに重忠 心に怒り おのれ巴を 引き落とさんと
    さては馬とも 揉みつぶさんと 声を力に えいやと引けど
    巴少しも 身動きせねば ついに鎧の 草摺り切れて
    どっと重忠 しりえに倒る 内田家吉 これ見るよりも
    手柄功名 抜け駆けせんと みんな戦の 習いとあらば
    御免候えと 重忠殿と 手綱かいぐり 駈け来る馬は
    これや名におう 足疾鬼(そくしつき)とて 虎にまさりて 足早かりし
    巴御前が 乗りたる馬は 名さえ長閑けき 春風なれや
    いずれ劣らぬ 名馬と名馬 空を飛ぶやら 地を走るやら
    追いつまくりつ 戦いけるが 内田ひらりと 太刀投げ捨てて
    馬を駈けよと 巴をむずと 組んでかかれば あらやさしやと
    巴薙刀 小脇に挟み 内田次郎が 乗りたる馬の
    鞍の前輪に 押し当てつつも 力任せに 締め付けければ
    動くものとて 目の玉ばかり 娑婆のいとまを 今とらすると
    首を引き抜き 群がる敵の 中へ礫(つぶて)に 投げ入れければ
    さても凄まじ あの勇力(ゆうりき)は 男勝りと 恐れをなして
    逃ぐる中より 一人の勇士 和田の義盛 馬進ませて
    手柄功名 相手によると 生うる並木の 手ごろの松を
    根よりそのまま 引き抜き持ちて 馬の双脛(もろずね) なぎ倒しつつ
    搦(から)め取らんと 駈け来たるにぞ 巴御前は 馬乗り廻し
    敵を蹄に 駈け倒さんと 熊の子渡し 燕の捩(もじ)り
    獅子の洞入り 手綱の秘密 馬の四足(しそく)も 地に着かばこそ
    いずれ劣らぬ 馬上の達者 かかる折しも 敵の方に
    旭将軍 木曾義仲を 石田次郎が 討ち取ったりと
    木曾の郎党 今井の四郎 馬の上にて 太刀くわえつつ
    落ちて自害と 呼ばわる声に 巴たちまち 力を落とし
    ひるむところを 得たりと和田は 馬の双足(もろあし) 力にまかせ
    横に薙(な)ぐれば たまりもあえず 前に打つ伏し 足折る馬の
    上にかなわで 真っ逆さまに 落つる巴に 折り重なりて
    縄を打ちかけ 鎌倉殿へ 引いて行くこそ ゆゆしけれ

    那須与一 弓矢の功名 (三段目)
    蛇は蛙(かわず)を 呑み食らえども 蛇を害する なめくじりあり
    旭将軍 木曾義仲も ついに蜉蝣(ふゆう)の ひと時ならん
    滅び給いて 鎌倉殿の 威勢旭の 昇るがごとし
    されば源氏の そのいにしえの 仇を報わん 今この時と
    平家追悼 綸旨(りんし)をうけて 蒲の範頼 義経二将
    仰せ蒙り 西国がたへ 時を移さず 押し寄せ給う
    武蔵相模は 一二の備え かくて奥州 十万余騎は
    大手搦手(からめて) 二手に分かる 風にたなびく 旗差物は
    雲か桜か げに白妙の 中にひらめく 太刀打物は
    野辺に乱るる 薄のごとく ここぞ源平 分け目のいくさ
    進め者ども 功名せよと 総の大勝 軍配あれば
    ここの分捕り かしこの手柄 多き中にも 那須の与一
    末の世までの 誉れといっぱ 四国讃岐の 屋島の浦で
    平家がたでは 沖なる舟に 的に扇を 立てられければ
    九郎判官 これ御覧じて いかに味方の 与一は居ぬか
    与一与一と 宣(のたま)いければ 与一御前に 頭(かしら)を下げて
    何の御用と うかがいければ 汝召すこと 余の儀にあらず
    あれに立てたる 扇の的を 早く射とれと 下知し給えば
    畏まりしと 御受け申し 弓矢とる身の 面目なりと
    与一心に 喜びつつも やがて御前を 立ち退いて
    与一その日の 晴れ装束は 肌に綾織 小桜縅(おどし)
    二領重ねて ざっくと着なし 五枚冑の 緒を引き締めて
    誉田(こんだ)栗毛という かの駒に 梨地浮絵の 鞍おかせつつ
    その身軽気(かろげ)に ゆらりと乗りて 風も激しく 浪高けれど
    的も矢頃に 駒泳がせて 浪に響ける 大音あげて
    われは生国 下野の国 今年生年 十九歳にて
    なりは小兵に 生まれを得たる 那須与一が 手並みのほどを
    いでや見せんと 云うより早く 家に伝えし 重籐(しげとう)の弓
    鷹の白羽の 鏑箭(かぶらや)一つ 取ってつがえて 目をふさぎつつ
    南無や八幡大菩薩 那須の示現(じげん)の 大明神も
    われに力を 添え給われと まこと心に 祈念をこめて
    眼(まなこ)開けば 浪静まりて 的も据われば あらうれしやと
    こぶし固めて ねらいをきわめ 的の要を はっしと射切る
    骨は乱れて ばらばら散れば 平家がたでは 舷(ふなばた)叩き
    源氏がたでは 箙(えびら)をならし 敵も味方も みな一同に
    褒めぬ者こそ なかりけれ

    嗣信が身替り 熊谷が菩提心 (四段目)
    さても屋島の その戦いは 源氏平家と 入り乱れつつ
    海と陸(くが)との 竜虎の挑み 時に平家の 兵船(へいせん)ひとつ
    汀(みぎわ)間近く 漕ぎ寄せつつも 船の舳先に 突っ立ちあがり
    これは平家の 大将軍に 能登の守(かみ)名は 教経(つねのり)なるが
    率爾(そつじ)ながらも 義経公へ お目にかからん 験(しるし)のために
    腕に覚えの 中差(なかざし)ひとつ 受けて見給え いざ参らすと
    聞いて義経 はや陣頭に 駒を駈けすえ あら物々し
    能登が弓勢(ゆんぜい) 関東までも かくれなければ その矢を受けて
    哀れ九郎が 鎧の実(さね)を 試しみんとて 胸指さして
    ここが所望と 宣いければ すわや源平 両大将の
    安否ここぞと 固唾をのんで 敵も味方も 控えしところ
    桜縅(さくらおどし)の 黒鹿毛(くろかげ)の駒 真一文字に 味方の陣を
    さっと乗り分け 矢面に立ち われは源氏の 股肱(ここう)の家臣
    佐藤嗣信 教教公の 望むその矢を われ受けてみん
    君と箭坪(やつぼ)は 同然なれば 不肖ながらも はや射給えと
    にこと笑うて たち控ゆれば 能登も智仁(ちじん)の 大将ゆえに
    さすが感じて 射給わざるを 菊王しきりに 進むるゆえに
    今はげにもと 思われけるが 五人張りにて 十五束なる
    弓は三五の 月より丸(まろ)く 征矢(そや)をつがえて 引き絞りつつ
    しばしねらいて 声もろともに がばと立つ矢に 血煙り立てど
    佐藤兵衛も 弓うちつがい 当の矢返し 放たんものと
    四五度しけれど 眼(まなこ)もくらみ 息も絶え絶え 左手(ゆんで)の鐙(あぶみ)
    踏みも堪えず 急所の傷手(いたで) 右手(めて)へかっぱと 落ちけるところ
    菊王すかさず 汀におりて 首を取らんと 駈け来るところ
    佐藤忠信 射て放つ矢に 右手の膝皿 いとおしければ
    どうと倒るる 菊王丸を 能登は飛び下り 上帯つかみ
    舟へはるかに 投げ入れければ 間なく舟にて 空しくなれり
    されば平家の 一門はみな 舟に飛び乗り 波間に浮かむ
    ここに哀れは 無官の太夫 歳は二八の 初陣なるが
    駒の手綱も まだ若桜 花に露持つ 見目形をば
    美人草とも 稚児桜とも たぐい稀なる 御装いや
    すわや出船か 乗り遅れじと 手綱かい繰り 汀に寄れば
    舟ははるかに 漕ぎいだしつつ ぜひも渚に ためろうところ
    馬を飛ばして 源氏の勇士 扇開いて さし招きつつ
    われは熊谷直実なるぞ 返せ返せと 呼ばわりければ
    さすが敵に 声かけられて 駒の手綱を また引っ返し
    波の打物 するりと抜いて 三打ち四打ちは 打ち合いけるが
    馬の上にて むんずと組んで もとの渚に 組み落ちけるを
    取って押さえて 熊谷次郎 見れば蕾の まだ若桜
    花の御髪(みぐし)を かきあげしより 猛き武勇の 心も砕け
    ついに髻(もとどり) ふっつと切れて 思いとまらぬ 世を捨衣
    墨に染めなす 身は烏羽玉(うばたま)の 数をつらぬく 数珠つま繰りて
    同じ蓮(はちす)の 蓮生(れんじょう)法師 菩提信心 新黒谷へ
    ともに仏道成りにける

    景清が錏引義経の弓流し 稀代の名馬 知盛の碇かつぎ (五段目)
    かくて源氏の その勢いは 風にうそぶく 猛虎のごとく
    雲を望める 臥竜(がりゅう)にひとし 天魔鬼神も おそれをなして
    仰ぎ敬う 大将軍は 藤の裾濃(すそご)の おん着長(きせなが)に
    赤地錦の 垂衣(ひたたれ)を召し さすが美々しく 出で立ち給う
    時に平家の 大将軍は 勢を集めて 語りて曰く
    去年播磨の 室山はじめ 備州水嶋 鵯(ひよどり)越えや
    数度(すど)の合戦に 味方の利なし これはひとえに 源氏の九郎
    智謀武略の 弓ひきゆえぞ どうぞ九郎を 討つべき智略
    あらまほしやと 宣い給う 時に景清 座を進みいで
    よしや義経 鬼神(おにがみ)とても 命捨てなば 易かりなんと
    能登に最期の 暇を告げて 陸(くが)にあがれば 源氏の勢は
    逃すまじとて 喚(おめ)いてかかる それを見るより 悪七兵衛
    物々しやと 夕日の影に 波の打物 ひらめかしつつ
    刃向いたる武者 四方へぱっと 逃ぐる仇(かたき)を 手取りにせんと
    あんの打物 小脇に挟み 遠き者には 音にも聞けよ
    近き者には 仰いでも見よ われは平家の 身内において
    悪七兵衛 景清なりと 名乗りかけつつ 追い行く敵の
    中に遅れじ 美尾屋(みおのや)四郎 あわい間近く なりたりければ
    走りかかって 手取りにせんと 敵の冑の 錏(しころ)をつかみ
    足を踏みしめ えいやと引けば 命限りと 美尾屋も引く
    引きつ引かれつ 冑の錏 切れて兵衛が 手にとどまれば
    敵は逃げ延び また立ち返り さてもゆゆしき 腕(かいな)の 強さ
    腕(うで)の強さと 褒めたちければ
    景清はまた 美尾屋殿の 頚の骨こそ 強かりけると 
    どっと笑うて 立浪風の 荒き折節 義経公は
    いかがしつらん 弓取り落とし しかも引潮 矢よりも早く
    浪に揺られて はるかに遠き 弓を敵に 渡さじものと
    駒を波間に 打ち入れ給い 泳ぎ泳がせ 敵前近く
    流れ寄る弓 取らんとすれば 敵は見るより 舟さし(漕ぎ)寄せて
    熊手取りのべ 打ちかかるにぞ すでに危うく 見え給いしが
    されど(すぐに)熊手を 切り払いつつ
    遂に波間の 弓取り返し (遂に弓をば 御手に取りて)
    元の汀(渚)に あがらせ給う 時に兼房 御前に出でて
    さても拙き 御振舞や たとえ秘蔵の 御弓とても
    千々の黄金を のべたりとても 君の命が 千万金に
    代えらりょうやと 涙を流し 申しあぐれば 否とよそれは
    弓を惜しむと 思うは愚か もしや敵に 弓取られなば
    末の世までも 義経こそは 不覚者ぞと 名を汚さんは
    無念至極ぞ よしそれ故に 討たれ死なんは 運命なりと
    語り給えば 兼房はじめ 諸軍勢みな 鎧の袖を
    濡らすばかりに 感嘆しけり さても哀れを 世にとどめしは
    ここに相国 新中納言 おん子知章(ともあき) 監物(けんもつ)太郎
    主従三騎に 打ちなされけり さらば冥途の 土産のために
    命限りと 戦いければ 親を討たせて かなわじものと
    子息知章 駈けふさがりて 父を救いて 勇気もついに
    哀れはかなき 二八の花の 盛り給いし 御装いも
    ついに討死 さて知盛の 召され給いし 井上黒は
    二十余町の 沖なる舟へ 泳ぎ渡りて 主君を助け
    陸(くが)にあがりて 舟影を見て 四足縮めて 高いななしき
    主の別れを 慕いしことは 古今稀なる 名馬といわん
    かかるところへ 敵船二艘 安芸の小太郎 同じく次郎
    能登は何処ぞ 教経(のりつね)いぬか 勝負決して 冑を脱げと
    呼べば 能登殿 あらやさしやと 二騎を射てに 戦いけるを
    よそに見なして 知盛公は もはや味方の 運尽きぬれば
    とても勝つべき 戦にあらず かくてながらえ 名にかはせんと
    大臣(おとど)殿へも お暇申し 冑二刎(ふたはね) 鎧も二領
    取って重ねて ざっくと着なし 能登に代わりて 面を広げ
    安芸の小太郎 左手(ゆんで)に挟み おのれ冥土の 案内せよと
    右手(めて)に弟の 次郎を挟み なおもその身を 重からせんと
    舁(かつ)ぐ碇は 十八貫目 海へかっぱと 身を沈めつつ
    浮かむたよりも 如渡得船(にょどとくせん)の 舟も弘誓(ぐせい)の 舵取り直し
    到り給えや 疾くかの岸へ 浪も音なく 風静まりて
    国も治まり 民安全に 髪と君との 恵みもひろき
    千代の春こそ めでたけれ


    引用文献
    • 菅江真澄 (1791) :『蝦夷迺天布利』
    • 久保寺逸彦 (1956) :「アイヌ文学序説」, 東京学芸大学研究報告, 第7集別冊, 1956
      • 『アイヌの文学』(岩波新書), 岩波書店, 1977
    • 砂沢クラ (1983) :『ク スクップ オルシペ 私の一代の話』, 北海道新聞社, 1983
    • Webサイト「娘への遺言」
        http://widetown.cocotte.jp/japan_den/japan_den005.htm