Up イオマンテ 作成: 2016-11-22
更新: 2019-11-12


    (1) 「イオマンテ」
      菅江真澄 (1791), p.536
    軒のたけにひとしく太き虎杖の(をり)を作りて,チカフカムヰとてシャモ嶋梟鴟(ふくろう)というこの大鳥を,鳥の神とてかひやしなひたてて,葉月,長月にもなれば,鳥にてまれ獣にてまれ,これをさ(裂)きほふり,それをさかなに,あるしまふけ(饗設)をせり。
    一とせに一度のアヰノの(コタン)の大祀饗飾にして,賑ひすといふ。
    シャモの辭にこれを送るといひ,アヰノはこれをヨマンといふとなん。


    (2) 熊送り
    普通「イオマンテ」と言えば,「熊送り」を指す。
    冬期の巣穴の猟では,子熊連れの雌熊にも出遭う。
    そこで,この子熊の処置が問題になる。
    アイヌは,この処置を「熊送り/イオマンテ」の様式に発展させた。

    すなわち,アイヌの女がこれを自分の子どものように育てる。
    成長して歯や爪が鋭くなり,手に負えなくなったら,檻に移す。
    さらに成長して檻で育てるのが無理になったところで,「熊送り」として殺す。

      砂沢クラ (1983),
    p.198
     子供たちもすっかり元気になり、養っていた子グマと一日中、楽しそうに遊んでいました。
    この子グマは、ほんとうにかしこくて、人聞の言うこともすることもなんでもわかるのです。
    政代と末子が棒を持って「ブランコ、ブランコ」と言うと走ってきて、左右をちゃんと見て、棒の真ん中をつかんでぶらさがるのです。


    pp.200, 201
    この子グマは、とて利口で、人間の言うことすることはなんでもわかるだけでなく、自分も人間の子供だ、と思っていたようで、することなすこと人間の子供そのままなのです。
     子供たちと歩く時は、後ろ足二本で立って並んで歩きますし、ソリ遊びの時も、ソリの後ろに乗り込んで、両手で前の子供につかまっています。外遊びから帰ってきた子供たちが「寒い寒い」と炉の火に手をかざしてあたっていると、自分も間に座って前足をかざしてあたるのです。こうして座ると、頭の高さも子供たちと同じぐらいで、幅だけが広いのです。
     私も子供たちのひとりのように思い、子供たちも、とてもかわいがっていたので、クマ送りで送った時は悲しくて悲しくて泣いてばかり。肉も食べる気になれませんでした。この子グマのことは、いまも忘れられません。

      同上, pp.260-264
     「なんとか育てる」と、私は残ったクマの子をいつもふところに入れ、うるかした米をかんで肉汁と混ぜ、二時間おきに口移しに飲ませました。 二口ほど飲むと眠るのですが、おなかがすくと針のようなツメでひっかき、夜も満足に眠れません。
     少し大きくなってからは、いつもおんぶ。 まき取りにも水汲みにも背負って行きました。 一カ月ほどすると歯が出てきたのでサイダーびんに米汁と肉汁を入れ、口に当てると「クッ、クツ」と飲むようになり、助かりました。
     ‥‥‥
    ‥‥‥ 子グマを外につなぐと大声で「抱っこしてくれ」と泣きわめきます。もう、抱っこ出来ないほど大きくなっているのに。
     仕方なく抱くと、抱いているうちは喜んで甘えていますが、おろそうとすると怒って、かじったりひっかいたり恐ろしいのです。

       同上, pp.173,174
     神の国に返すクマは、まず花矢で射ってから最後に狩りに使う本物の矢 (昔は,狩りの時には矢尻に毒を塗った) を心臓めがけて射ち、それから丸太二本で首を絞めて殺します。その間,若い女たちがぐるりを囲んで、「ホーイ、ホイッ」「ホーイ ヒィッ」「ホーイ ウェ」「へーイ ワァッ」などのかけ声に合わせてにぎやかにウポポ (輪踊り) します。
     クマ送りの儀式は、死んだクマから頭の骨を取り出し、肉も脳みそもきれいに取って骨ばかりにし、それをイナウ (ご幣) で飾ってイナウサン(祭壇) に祭って終わるのですが,頭を作るのに時間がかかり、出来上がるまで一週間も二週間もかかるのです。
     昔は、楽しみといったらクマ送りぐらいのものだったので、集まってきた人たちは、クマの頭が出来るまで、夜昼、食べたり飲んだりしながら、歌って踊って騒ぐのです。
     家の近い人は帰りますが、遠くから来た人は泊まり込むので、クマ送りをする家の女は、一日中、ごはんの仕度をしたり、後片付けをしたり、眠るひまもなく働かなくてはなりません。

      村上島之允 (1800), pp.89-92.
    イヨマンテ 一曰イヨヲマンテ 是、夷地の大祭事にして、熊を殺し神に祭る也。
    初春の頃より深山の積雪を分て、飼馴たる犬おして熊の蟄したるを探らしむ。
    子を捕獲て家婦に授、乳味を以て是を育しむ。
    生質によりて荒き籠に入置もあり。
    食は魚肉を與て是を養。
    冬十月頃に至れは長して大熊となる日を卜して酒食を設、親族、朋友を集む。
    是を賓人造(マラフトカル)と云。
    其朝、熊に食事さまさま喰せ、神は今日ヲマンテせり。
    よくよく餌喰(えへ)し給へと説言し、集夷篭をめくり(リムセ)をす。
    削りかけの幣木(イナヲ)を製し、如垣にならへ、前に文席(アヤキナ)を敷き、
    扨、熊を籠より出すは家婦のなす事、古例なり。

    其時、衆夷の中に一人、両耳を取りて、背に打乗れ五三人立 より首に綱三筋結ひ付、あなたこなたと心侭にくるひ遊せ、酋長(ヲトナ)側にありて、山の方にむかひ、矢を放つ。
    カモヰシノヲマンテノウと唱ふ。
    夫より男夷は嬰子に至るまで、假に弓矢を製し持せ、先、其所の酋長の一男、文は熊を飼置家の子おして射初しむ。
    矢の當るのにして疵はつかす。

    長八尺はかりなる木を三本かねかね作り置、射事終れは熊の首を木の上へ引すへ、上より木ておさへ、胴へも横に木をかけ押殺す。
    時に白銀作りの太刀を首に當るの
    少しも刃物を用ひす。
    此時土地によりて、むらかる夷に栗の実、棄のまき掛るもあり。
    育たる婦歎きにたへすして、伏しまろひて是を悲しむ。

    造飾したるヌシヤサンカタ 幣代をかさりたる棚太刀(タン子ツプ)短刀(エモシ)玉器(シトキ)、其外金銀鏤たる器、種々飾あるとある宝器を出してあかなへり。
    扨、殺したる熊を中央に置、夷服を著さしめ、耳環、又太刀を帯さしめ、酒食を供し、
    拜禮厳重にして、酋長たる者、祝詞して曰、‥‥
    集會の男女夫々に言挙て、神の出立、太刀を帯し、衣服を着し、耳環を粧ひ、いさましき有様なとと祝し、神酒飲(カモイノミ)をそ始めける。」


    (3) 熊送りの祈詞
      鍋沢元蔵 (1966). pp.82-85
    Ku kor heperpo
    kamuy hekachi
    ku i tak chiki
    pirka nu yan
    kamuy eunuhu
    aynu or un
    chi-eikasnu kar
    aynu otta
    chipirka resu
    tane ta pakno
    a-eekarkar wa
    a-eresu katuhu
    ne wa neyakka
    aynu otta
    o-honno a-eresu
    kamuy or un
    a-e-oripak wa
    tapanpe kusu
    pirka to or
    chikonumke kar
    Nusa-kor-kamuy
    kamuy teksam
    e-esinot
    e-tapkar siri
    aynu neyakka
    okkayo otta
    menoko otta
    e-erimse
    e-etapkar,
    nonno ay otta
    sonno ay otta
    a -ekore si ri,
    ne okakehe ta
    sonno kamuy ne
    ean wa tapne
    Mosir-kor-huchi
    kamuy kiri etoko
    a-eeare wa,
    iresu huchi
    ekopuntek na,
    chep maratto
    sito maratto
    sake neyakka
    pirka inaw
    ikor neyakka
    a-eetomte wa
    kamuy ueneusar
    okake an kor
    tane anakne
    eriwak rusuy
    ki nankor wa
    kamuy e-onaha
    kamuy e-unuhu
    kasi chiose
    kamuy-imoka
    kamuy-muyanki
    esiturare,
    iresu huchi
    Nusa-kor-kamuy
    ekamuy ramachi
    chioka peka
    asir kosonte
    emi kane wa,
    asir kamuy ne
    asir pito ne
    kimun metot-so
    metot tapkasi
    koyaykannakar
    kamuy ekotanu
    e-o-arpa yak,
    kamuy e-onaha
    kamuy e-unuhu
    chi -ekopuntek
    e-ekarkan na,
    heyoki sakno
    hosari sakno
    chipasan kurka
    eso us wa
    riwak kamuy ne
    riwak pito ne
    e-.arpa kunip
    nehi tapan na
    ku kor heperupo
       わが小熊
    神の子よ
    われ申しあげること
    よくお聞きなさい
    神なる汝の母が
    人間に
    説き聞かして
    人間に
    このなき養育を
    今までに
    されて
    養われてきた
    のであるけれど
    人聞の中に
    長く育てるのは
    神に
    おそれおおいから
    それゆえ
    よき日を
    選んで
    幣場の神
    神のかたわらに
    汝の遊戯
    汝の舞踏をして
    人間なら
    男も
    女も
    そこで踊り
    そこで舞踏し,
    花矢も
    本矢も
    汝に持たしめるもの,
    そのあとは
    真の神様に
    なり変って
    国土を司る祖神の
    神の足先に
    座らせて,
    育ての媼神に
    賞せられるのです,
    鮭の供物
    餅の供物
    御酒
    清き御幣
    宝物さえも
    飾りつけて
    神が賑かに話し合うのも
    終って
    いまはすでに
    立派な姿になくたく
    思し召して
    神の御父
    神の御母
    への荷物
    神の食物
    神の土産を
    ともになされて,
    育ての媼神と
    幣場の神が
    汝の神霊を
    お引き受けして
    新しい小袖を
    汝に着せて,
    新しい神のごとく
    新しい方のごとく
    山の奥
    奥山の峰上に
    自ら蘇生して
    神の郷へ
    帰り給えば,
    神の御父
    神の御母は
    汝を誉めそやす
    ことでありましょう,
    たたずむことなく
    振り向くことなく
    祭壇の上に
    立ちいでて
    立派な神に
    立派なお方になって
    汝は行くように
    なるでしょうぞ
    わが小熊よ


    引用文献
    • 菅江真澄 (1791) :『蝦夷迺天布利』
    • 村上島之允 (1800) :『蝦夷島奇観』
      • 佐々木利和, 谷沢尚一 [注記,解説]『蝦夷島奇観』, 雄峰社, 1982
    • 砂沢クラ (1983), 『ク スクップ オルシペ 私の一代の話』, 北海道新聞社, 1983.
    • 鍋沢元蔵 (1966) : 門別町郷土史研究会(編)『 アイヌの祈詞』, 1966