Up 運上屋での生活模様 作成: 2019-02-09
更新: 2019-11-09


    (1) 「運上屋の図」
      島田元旦 (1799)


    (2) 前借り
      串原正峯 (1793), p.495
    諸方より海鼠引夷 尤も宗谷支配の夷ともなり ((宗))谷へ集りたる節は、
    會所へ三十人、五十人一所に詰かけ、
    段々云込て、海鼠引漁事を引當に、飯糧又は米、麹、酒、たばこ、煎海鼠引道具等入用の品其外前に書記したる品ともを借請る事にて、
    餘り大勢にて混雑する時は、シマコライ/\と呼はり、外へ追出し、次第々々に貸遣す事なり。


    (3) 日和待合は酒盛で過ごす
      串原正峯 (1793), pp.508,509
    海鼠引に集りたる蝦夷とも、
    先ソウヤ濱邊に丸小屋をかけ、
    會所にて種々交易の品を前貸をし、
    おもに酒を借り、
    日和待合の内は丸小屋にて酒盛をなし踊り狂ふに、
    酒興に乗じ色々戯れをなすに、此へチリをはしめたり。
    此へチリといふはもとカラフト嶋の踊にて、西蝦夷地にてはシヤリ、ソウヤ、テシヲといふ。
    手を打懸聲して踊る。
    十人、十五人、乃至二十人男女交り順列して踊る。
    のびて踊り、縮て踊り、拍子有、間ありて面白き踊にて、興ある事なり。
    最初はくるり/\と輸に廻り、調子揃にしたがひ圖のことく廻りて踊るなり。
    上手なる蝦夷先鼻に立、夫に随ひ踊るなり。
      ヘチリ踊 踊り歩行く道筋の圖
      此輪の通りを幾度も廻りながら通るなり


    (4) オムシャ
      串原正峯 (1793), p.517
    六月十日宗谷會所にてヲムシヤを致したり。
    是は、最早海鼠引漁事も仕廻(しまい)、夷ども夫々我場處へ歸村いたし度旨相願、ユウベツ其外下地の夷とも歸村致すに付、乙名たてのもの三人、今日會所にてヲムシヤをいたすに、此時は夷とも着服を改、會所下段にキナを敷夫え出る。
    其時タカサラにツ゚ーキをのせ、イクバシを添出す。
    タカサラは盃臺、ツーキは盃、尤汁椀を用ゆ。
    イクハシといふは粘飯(へら)のこときものなり。
    是は髭あけなり、〔木村と予兩人亭主にて盃を始め、〕先官土木村氏少し呑で上座の乙名へさす。
    其時予も少し呑て其次座の乙名へさす。
    尤盃をさすに右のツ゚ーキに酒を一盃つがせてさし出せは、盃臺ともに請取りて、アゝ/\と禮をなし、イクハシを右の手に持ち、イクハシの先へ盃の内の酒をつけ、天地四方海山火水の神へ手向、其イクハシを以て鼻の下の髭をすくゐ上て飲なり。
    尤いか程大(さかずき)にても二口に呑仕廻なり。
    夫より又酒をつぎ、此方へ戻すなり。
    此銘々盃事終りて、壹人に酒小樽壹つ、((にごりざけ))壹樽、烟草貳把、塗箸壹膳、(さじ)壹本づつ相渡せば、禮を述て退くなり。
    其外の夷ともへは濁り酒を呑するなり。
    右乙名ともへ遣したる品の内、酒壹樽は差引勘定の時勘定に入るゝなり。
    其外の品々は無代にて遣すなり。
    扨七月下旬になりて交易濟て惣ヲムシヤの時は、
    宗谷乙名だて二十三人え壹人前八升入米貳俵、麹七升入半俵、烟草壹把づち遣し、銘々盃事は前の通りなり。
    此時は會所にては手狭故、會所の外へ差掛をなし、其所へ乙名ともを呼出し、壹人づゝ通辭手を引出る。
    其時被下物を渡し、飯を給させ、盃事をなすなり。
    其外の夷ともは残らす外へ莚を敷、行器に濁り酒を入段々間配り、兩方に夷とも向ひ合て並ひ、盃をなすなり。
    夫より酔に乗し、踊をおとり、其外いろ/\戯れをなし、メノコ打交り、終日祝ひ遊ふなり。