"アイヌ" は,数から言うと,ほんの僅かである。
しかし彼らは,「アイヌの代表」を装う。
実際,「代表」を装わねば,政治運動や利権の獲得・保持は成らない。
彼らは,自分たちを合理化してくれるイデオロギーにつく。
そのイデオロギーは,自分たちを<正義>にしてくれるイデオロギーである。
彼らは,<正義の戦士>を装う。
正義の戦いというものは,無い。
戦いは,欲しい物をとる戦いである。
この戦いに,「正義」の大義名分がつけられる。
<欲しい>が先ずあり,大義名分が後付けされる。
"アイヌ" とイデオロギーの関係も,これである。
「権力・利権を獲得したい」
「政治で戦をするぞ」
「大義名分が要る──これをつくろう」
そして出来上がったのが,「アイヌ差別」「アイヌの貧窮」「アイヌ民族」「アイヌモシリ」「ジェノサイド」等がキーワードになった "アイヌ"イデオロギーというわけである。
<欲しい>→<戦さ>→<正義>,この順番を間違わないこと。
「<正義>→<戦さ>」ではない。
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本多勝一 (1989)
pp.123-125
[1973 (昭和48) 年に初めて行なわれたアイヌの] 実態調査のあと 1974 年度から道が政府のうしろだてを得て始めた第一次ウタリ対策七カ年計画は、どうしても重点が経済環境 (教育を含む生活改善) におかれていた。
1980 (昭和55) 年には計画の成果確認をかねて再び実態調査が行なわれ、あくる1981 (昭和56) 年から第二次ウタリ対策七カ年計画が発足する。‥‥‥
第二次ウタリ対策からは「文化」──即ち言葉や芸術などアイヌ文化の見直しと普及も柱のひとつに加えられた。
‥‥‥
だが、この第二次対策が発足してまもないころから、野村自身も含めて協会幹部たちのなかから大きな疑問が生じ始める。‥‥‥
[そこで] 10 人からなる特別委員会が設置される。‥‥‥10 人のうちシサム (非アイヌ日本人) は一人だけ、それもアイヌに深い理解をもっ人物である山川力氏 (元北海道新聞論説委員) に顧問として加わってもらった。
あとの九人はつぎのとおり。
野村義一・員沢正・小川隆吉・秋田春蔵・向井政次郎・
神谷与一・大野政義・伊端宏・沢井進。
この特別委員会が最も問題としたのは、日本政府に対する説得力であった。
現行の「旧土人保護法」 は空文化した差別法としてむろん廃止すべきものだが、たんに廃止するのではなく、それと入れかえに、真にアイヌ民族のための法律を制定させなければならない。
そのためには、日本政府が認めざるをえないだけの強い説得力のある内容でなければならぬ。
「 |
結局それは、私どもアイヌは先祖からずっとアイヌモシリ (北海道・千島など) に住んできたという事実にもとづく先住民としての権利保証の要求。これを第一の命題にしなければ説得力はないということになったんです。われわれのつい最近までの歴史的経緯をきちっと表現し、認めさせなければならないと。ですからこれはウタリ対策の単なる補強制度ではなくて、われわれの何百世代もの先祖からのアイヌモシリにおける権利保証の要求であり、全く次元の異なる基本的対策なのです」(野村の言葉)
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この特別委員会で検討がすすめられている間に出てきたのが、いわゆる「北方領土」問題である。
「何百世代もの先祖」からの先住民としての権利となれば、千島についても北海道と全く同じことがいえるのではないか。
pp.130,131
この年 [1983年] になると、さきに特別委員会をつくって検討をすすめてきた「アイヌ民族に関する法律(案)」(略称寸アイヌ新法」) が最終的なまとめの段階にはいっていた。
そして翌 1984 年 5月、ウタリ協会総会で制定要求が決議されたアイヌ新法は、まずつぎのような「声明」 が枕におかれる。
一、 |
明治三十二年制定のアイヌ民族差別法である北海道旧土人保護法の撤廃を要求する。
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一、 |
北海道旧土人保護法による多年にわたった民族の損失を回復するためにアイヌ民族に関する法律 (別紙) を制定することを要求する。
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一、 |
アイヌ民族に関する法律の制定は北海道旧土人保護法撤廃と同時とする。
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そして、アイヌ民族の存在を明示する「前文」につづき、「本法を制定する理由」 の項で北海道侵略の経過がつぎのように説明された。
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北海道、樺太、千島列島をアイヌモシリ(アイヌの住む大地)として、固有の言語と文化を持ち、共通の経済生活を営み、独自の歴史を築いた集団がアイヌ民族であり、徳川幕府や松前藩の非道な侵略とたたかいながらも民族としての自主性を固持してきた。
明治維新によって近代的統一国家への第一歩を踏み出した日本政府は、先住民であるアイヌとの間になんの交渉もなくアイヌモシリ全土を持主なき土地として一方的に領土に組みいれ、また、帝政ロシアとの間に千島・樺太交換条約を締結して樺太および北千島のアイヌの安住の地を強制的に棄てさせたのである。
土地も森も海もうばわれ、鹿をとれば密猟、鮭をとれば密漁、薪をとれば盗伐とされ、一方、和人移民が洪水のように流れこみ、すさまじい乱開発が始まり、アイヌ民族はまさに生存そのものを脅かされるにいたった。
アイヌは、給与地にしばられて居住の自由、農業以外の職業を選択する自由をせばめられ、教育においては民族固有の言語もうばわれ、差別と偏見を基調にした「同化」政策によって民族の尊厳はふみにじられた。
戦後の農地改革はいわゆる旧土人給与地にもおよび、さらに農業近代化政策の波は零細貧農のアイヌを四散させ、コタンはつぎつぎと崩壊していった。
(中略)
アイヌ民族問題は、日本の近代国家への成立過程においてひきおこされた恥ずべき歴史的所産であり、日本国憲法によって保障された基本的人権にかかわる重要な課題をはらんでいる。
このような事態を解決することは政府の責任であり、全国民的な課題であるとの認識から、ここに屈辱的なアイヌ民族差別法である北海道旧土人保護法を廃止し、新たにアイヌ民族に関する法律を制定するものである。
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p.133
ウタリ問題懇話会の活動は必ずしも「すみやか」とはいえなかったものの、オーストラリア・アメリカ合州国 (アラスカを含む)・ニュージーランドの現地調査や、中国の少数民族制度研究なども含む多方面からの検討がつづけられ、三年余りのちの去年 (1988年)3月に知事あて答申された。
p.134
去年 [1988年] の八月はじめ、ジュネーブ「国連における先住民族の人権活動」 会議が開かれ、ウタリ協会は関東ウタリ会の協力を得て、野村ら三人のアイヌを代表団に送った。
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引用文中赤文字にした「野村自身も含めて協会幹部たちのなかから大きな疑問」の内容は,つぎのものである:
「自分たちは,利権の輪の外に置かれてしまっている。
自分たちが利権の中心であるべきだ。」
引用文献
- 本多勝一 (1989) :「アイヌ民族復権の戦い──野村義一氏の場合」
- 所収 :『先住民族アイヌの現在』, 朝日新聞社, 1993. pp.101-136.
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