"アイヌ" でアイヌ学を行うとする者を,本論考は「学術"アイヌ"」と謂う。
"アイヌ" が特段アイヌ学を志すにおいては,《自己確証を得たい》ないし《自分が "アイヌ" であることが強みになる》の思いが持たれていることになる。
しかし,学術はリアルであるから,この思いはすぐに捨てられる。
アイヌ学に入るときは,"アイヌ" も素人である。
そしてアイヌを知るとき,"アイヌ" は辞めるものになる。
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砂沢クラ (1983), pp.217-219
真志保さんにアイヌ語教える
登別温泉に来てしばらくして、金成さんから「私は妹の家に住むから、あなたたちは私の家に住んで( 知里)真志保にアイヌ語を教えてくれないかしという話がありました。
私たちは、それまでチセ(家)のうしろにあった古い小屋に住んでいました。金成さんの家は登別の駅の近くにあって、子供たちが学校に通うのにも便利でしたし、クマ彫りをして卸すのにも都合がよかったので金成さんの家に移ることにしました。
真志保さんは、熱心に、毎日欠かさず通ってきて、夫からアイヌ語を習っていました。物置でクマ彫りをしている夫の前に座り、ユーカラ(長編英雄叙事詩)やトゥイタック(昔話)を書いた紙をめくりながら、いろいろ聞くのです。
真志保さんの話すアイヌ語は、はっきりと聞こえない音、字で書けば小さく書く字が、よく抜けていたようです。たとえば「セコロイタック(そう言ったとき)」の「ロ」が抜ける、といったふうで、夫は「ロを落としちゃだめだ」とやかましく注意していました。
勉強の合間には、よく、夫が「アイヌ語など習ってどうするのだ」とか「アイヌ語は、もう必要のないものではないか」と言い、真志保さんが「世界中の人が覚えたがっている」とか「ほんとうの日本人なら、ほんとうの日本語であるアイヌ語を勉強しなければならないのだ」と答えていました。
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知里真志保 (1937), pp.167,168
普通にいわゆる「アイヌ」という概念は, 厳密にこれをいうならばよろしく「過去のアイヌ」と「現在(および将来)のアイヌ」とに区別せらるべきである.
人種学的には両者はもちろん同一であるにもせよ, 各々を支配する文化の内容は全然異る.
前者が悠久な太古に尾を曳く本来のアイヌ文化を背負って立ったに対し,後者は侮蔑と屈辱の附きまとう伝統の殻を破って,日本文化を直接に受継いでいる.
だから,「過去のアイヌ」と「現在(および将来)のアイヌ」との間には, 截然たる区別の一線が認識されなければならないのである.
普通に「アイヌ生活」とか「アイヌ民俗」とかいえば,必然的に「過去のアイヌ」の生活や習俗を意味すべきはずなのに, とかく「現在のアイヌ」のそれのごとく誤解されがちなのは, 当然に区別さるべき二概念が,「アイヌ」なる一語によって、漫然と代表せられていることに起因する.
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かくて,今日においてもなお,案外に多くの人々が,アイヌとさえ聞けば,いまだに熊と交渉を有って,文献の示すがごとき原始的な生活を営んでいるものと想像し,アイヌ民族に関して何か書く所があれば,それが直ちに現在の生活であるかのごとく思惟してしまう.
例えば今でも男は楡の皮糸で織ったアツシなるものを纏い,女は口辺に入墨を施し,熊祭の行事を営み,鮭や熊の肉を主食物となし,暇さえあれば詩曲や聖伝を誦し合って,老も若きも例外なしにアイヌ語の中に生活しているものと思い決めてしまう.
しかしながら実際の状態はどうであったか.
なるほどいまだに旧套を脱しきれない土地もあるにはある.
保護法の趣旨の履違えから全く良心を萎縮させて,鉄道省あたりが駅頭の名所案内に麗々しく書き立てては吸引これ努めている視察者や遊覧客の意を迎うべく,故意に旧態を装ってもって金銭を得ようとする興業的な部落も二,三無いでは無い.
けれどもそれらの土地にあってさえ,新しいジェネレーションは古びた伝統の衣を脱ぎ捨てて,着々と新しい文化の摂取に努めつつあるのである.
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引用文献
- 砂沢クラ (1983) :『ク スクップ オルシペ 私の一代の話』, 北海道新聞社, 1983
- 知里真志保(1937) :『アイヌ民譚集』, 郷土研究社, 1937
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