Up 同化"アイヌ" ──同化の進行により終焉 作成: 2019-10-20
更新: 2019-10-20


      貝澤藤蔵 (1931), p.375
     内地に居られる人々は、未だ、アイヌとさえ言へば、木の皮で織ったアツシ(衣類) を着て毎日熊狩をなし、日本語を解せず熊の肉や魚のみを食べ、酒ばかり呑んで居る種族の様に思ひ込んで居る人が多い様でありますが、之は余りにも惨なアイヌ観であります。
     折襟にロイド眼鏡を掛けた鬚武者の私が、毎日駅に参観者の出迎へに出ると、始めて北海道に来た人々は、近代的服装をしたアイヌ青年を其れと知る由もなく、私に色々な質問をされます。
     内地でも片田舎の小学校の先生かも知れません其人に、「アイヌ人に日本語が分りますか?何を食べて居りますか?」と質された時、私は呆れて其人の顔を見るより、此人が学校の先生かと思ふと泣きたい様な気分になりました。
     「着物は?食物は?言語は?」とは毎日多くの参観者から決って聞かれる事柄です。
    けれど此様に思はれる原因が何処にあるかとゆふ事を考へた時、私は其人々の不明のみを責め得ない事情のある事を察知する事が出来ます。
    常に高貴の人々が旅行される時大抵新聞社の写真班が随行されますが、斯うした方々が北海道御巡遊の際、支庁や村当局者が奉送迎せしむる者は、我々の如き若きアイヌ青年男女では無く、殊更アツシ(木の皮で織った衣類) を着せ頭にサパウンベ(冠) を戴かしたヱカシ(爺)と、口辺や手首に入墨を施し首に飾玉を下げたフツチ(老嫗) だけです。
    此の老人等がカメラに納められ、後日其の時代離れのした写真と記事が新聞に掲載される時、内地に居てアイヌ人を見た事のない人々は誰しもが之がアイヌ人の全部の姿であると思ひ込むのも無理ない事だらうと思ひます。
    否々其ればかりではなく、時偶(ときたま)内地に於て内地人がアイヌ人を見受ける時は、山師的な和人が一儲けせむものと皆を欺し、アイヌの熊祭と称して見世物に引連れて居る時であります。
    之じゃ何時迄経っても内地に居られる人々は熊とアイヌ人とを結び付けて考へるだけであって、真に時代に目覚めたアイヌ人の姿を見、其の叫ぴを聞き得ない訳であります。

      同上, p.377
    ‥‥‥ 今日我々の最も残念に堪えないのは、神が与へて下された広大なる北海道の天地を、学問が無かったばかりに皆取られ、最後に法律の保護に依って住むだけの土地を給与され、やれ保護民族よ、生存競争の落伍者よ、と嘲笑せられ乍ら生き行く事です。
    けれど漸く若きアイヌは目覚たのです。
    我々は最早昔のアイヌでは無い。
    死児の齢を数へる様な泣言は止めて、先に進んで行く人々を追駈けて行かう!

      同上, pp.377,378
    今日新聞を読み雑誌を見る我々アイヌ青年に最も不快の念を抱かしむるものは、我々に嘲笑的侮蔑的な代名詞の冠せられて居る事であります。
    敗残の群──滅び行く民族──生存競争の落伍者──、何と惨めな何と痛々しい代名詞ではありませんか。
    私は此語を聞き、新聞や雑誌に此語を見る度に、悲憤の涙がこぼれます。
    先住の地を自由に侵掠せられ、優先に得らるべき数々の権利を占取せられ乍ら、無学なるが故に袖手傍観し最後に嘲笑せらるゝアイヌ民族こそ哀れなものです。
    若し我等の祖先の中に自己の生命は永遠に続くべきものである、其未来の生命の為より善き今日を建設して置かう、と云ふ様な考を持った一賢人が居ったなら、確に自分等は今日此様な境遇に置かれて居ないだらうと思ひます。
    けれど此様な愚痴は言ひますまい。
    浴びせられる嘲笑に向って奮然と起たう。
    激しき社会の生存競争場裡に一丸となって飛び込み、精限り魂限り働き、今後十年二十年後猶ほ且此の旧態を脱し得ない場合にこそ、如何なる嘲笑、如何なる侮蔑的代名詞でも甘んじて受けやう。

      同上, pp.378,379
    此の弱り切って居る人々を救ふのには金や食品を与ふべきだらうか?。
    否、否、之等の物質はウタリ (同族) 等を一時は救ふかも知れないが、結極 (ママ) は我等を遊惰の民と化せしめ末は野倒死をさせる様なものであります。
    真の救助!、其れは何かと言ふに学問と云ふ大なる精力を注ぎ込む事です。
    其れに依ってウタリ(同族) 等の頭に自覚!、発奮!、勤倹!、貯蓄!、斯うした観念を深く/\植付ける事です。
     差別待遇──、過去に於てはアイヌ保護の為に設けられた此の施設 (土人学校) 等も即時撤廃し、幼少の頃より同一線上に立たしめて社会へスタートを切らせ、其結果の敗残者こそ社会の落伍者として自滅すべき運命の人でなければなりません。

      同上 pp.388,389
     本年の八月二日北海道の首都札幌に於て第一回の全道アイヌ青年大会がジョンバチエラー氏の肝入りで催されました。
     此の会に馳せ参じたものはウタリ (同族) 中最も智識ある男女七十有余名。
    私等が嘗て新聞紙上に読んだ事のある水平社大会に於ける悲痛な叫ぴ、激越なる呪ひの声こそ無かったけれど、何れも熱と力の篭った正義の叫ぴが挙げられました。
    其れは社会に向ってと云ふより眠れるウタリに伝ふ覚醒の暁鐘と云ふ様なものです。
     我々は最早眠って居てはならない、本堂に集へる兄弟等よ‥‥、私等は一日でも早く目覚めた事はウタリ等の為めに真に喜ばしい事である、私等は声を揃へて眠れるウタリ等を呼ぴ起さう‥‥と叫ぶ甲青年。
     アイヌ民族が今日尚世人より劣等視せられ差別待遇を受けるのは何故であるかと云ふに、其れは私等の祖先に学問が無かったからである、学問の無い処に文明も無ければ進歩も無い、勿論科学の発生する筈もないのである、此様な時代のウタリに人が空を駈け海中を潜行する今日を予想せしむるのは無理である、況んやウタリ等が日常食物に供せし熊や鹿の無くなる事に於ておや。 けれど我々は最早呉下の旧阿蒙であってはならない、我々は今日立派な教育を受けて居る、若き過去を顧みて明るき未来を建設しなければならない。 兄弟らよ手を取り合って奮ひ起たふ‥‥と叫ぶ乙青年。
     交々壇上に叫ばれる熱火の弁、起きよ、覚めよ、奮へよの雄叫び。


    引用文献
    • 貝澤藤蔵 (1931) :『アイヌの叫ぴ』, 1931
      • 所収:小川正人・山田伸一(編)『アイヌ民族 近代の記録』, 草風館, 1998. pp.373-389.