Up サル会所 作成: 2018-11-29
更新: 2019-01-27


       サル会所の絵図

      「佐留場所大概書」
    佐留場所大概書
    箱館より海岸通り凡七拾七里
    蝦夷地佐留場所 寛政十一年御用地に相成候。
    東北山 西南海
    海浜掛払遠 渡浅くして 船掛り澗なし。
    産物積取船も沖掛り故、時化荒の節は逃船となる。
    風波を凌ぎ寅卯の風にて出帆し、酉戌の風を入津する也。
    一 会所 壱ヶ所 表西南 棟行拾六間
             裏東北 梁間五間半
      内 座敷弐間 次三間 帳場 幷 支配人、番人部屋 
      台所板敷、其外土間也。
      右 文化二年 新規御普請出来。
      支配人一人
      番人八人
      見習番人一人
      会所附 渡船 弐艘
          漁船 弐艘
    一 堀井無之、山水を(かけひ)へ移し会所へ引。
    一 弁天社 壱ヶ所 弐間半に弐間
    一 旅宿 壱ヶ所 八間に四間
    一 物置 壱ヶ所 拾間に三間
    一 下宿 壱ヶ所 拾弐間に四間
    一 板蔵 三ヶ所 内 仕入物蔵 八間に四間
               産物囲蔵 拾間に四間
               雑物蔵  五間に三間
    一 物置小家 壱ヶ所 七間に四間
    一 作事小家 壱ヶ所 八間に四間
    一 稼方引越居小家 五間に三間
    一 鍛治小家 壱ヶ所 三間に弐間
    一 厩 壱ヶ所 拾間に四間 惣馬数 三拾壱疋
    一 出張番屋 三ヶ所
      内 壱ヶ所 七間に三間 会所より壱里西方信台に有。
        壱ヶ所 同 同 会所より三里東方福生に有。
      右弐ヶ所も漁業夷人に番人壱人宛差添、
      二月中旬より罷越(まかりこし)八月中旬引払。
      壱ヶ所 六間に三間 別當狩に有。
      右は三ッ石場所内え昆布刈取中沙留夷人出稼場也。
      夏土用頃より夷人に番人壱人差添罷越、八月初め引払。
      此出稼割合高の内 弐分 三ッ石
               八分 佐留
    一 蝦夷惣家数弐百三拾六軒 惣人数千拾三人
      内 男五百三拾七人
        女四百七拾六人
      内 乙名役拾四人 小使弐人
    一 夷人漁船 百五拾艘
      産物
       熊胆 熊皮 干鱈 干鮫 干(かすべ) 魚油 煎海鼠 鯡
       島鼠 鷲羽 椎茸 厚し (しな)縄 
       此外雑魚もあれ共〆粕等に出来程は無之。
      右産物出高毎年九百石目程、
      三月末より七月頃迄箱館仕入物積下り船え積替登せ候。
      元運上金百拾両。
      御用地以前は、ユウフツ場所内マゝツと申所え
      佐留夷人毎年秋に至鮭漁致し来候処、
      文化元年よりマゝツえは不参、
      ユウフツ附千年川の内にて漁場受取今に至り、
      毎年頃より夷人を遣し鮭漁出稼為致、
      干鮭箱館廻し御払に相成候上、
      勇武津 佐留半に御収納相成候積り。
      元松前若狭守家来小林嘉門給所の節、
      運上家サル川の辺に有之処、
      五拾年已前当会所有之処へ引替候由、
      其頃迄は場所々々荷物積取船はゆい立にて、
      唯板を集め藤蔓或は縄(など)にて(こしらえ)候船のみにて相弁来候処、
      運上家未佐留川辺に有之節、
      始て三百石積廻船打建荷物積出せしより、
      蝦夷地廻船始りの由申伝ふ。
    一 文化四卯年より浦川場所へ昆布出稼仕、
      取揚昆布箱館相廻し、
      御払に相成候高の内、浦川 佐留半々の割合に御座候。
    一 西勇武津境フイハフより東新勝府境アツベツ迄、
      海岸里数凡六里弐拾七丁。
       ‥‥‥
    一 サル川 船渡し 巾七拾間程 川守蝦夷番人
      川源より川下迄里数凡四拾七里、
      左右樹木生茂り断岩又平地の所もあり。
      七月頃より鮭魚昇るといへ共至て少し。
      小魚は尤多し。
      十一月下旬より氷河と成。
      春正月下旬には氷解船渡しと成。
       ‥‥‥
    佐留場所は東北山、西南海、会所近辺高山なく用水も自由、薪となす雑木も多し。
    春二月末に草木も漸々芽み、四月頃咲く。
    夏土用中も暑気薄く、秋は八月中旬より霜下り、樹草黄み、冬は風烈敷故雪も積る事なし。
    寒気もゆるやかに四季とも凌能き方也。
    夷人業は春は海辺へ出て釣物をなし、
    夏は生海鼠を引、昆布を刈、
    秋に至千年川鮭漁出稼致し食糧を貯へ、余分は干立て荷物に出し、
    冬は山家へ帰り漁船又は網を拵へ、榀縄をなひ、
    女は厚しを織、キナ(むしろ)を編み、
    男女共春より秋迄漁業、
    手透の節は粟、稗を作り、或は茎立の草 同根を刈取、魚へ交て食糧資とす。
    一体夷人大勢にて産物乏しき場所故、夷人経営不宜方也。
    (東夷(せつ)々夜話巻之十三) 

      松浦武四郎 (1870), pp.129,130
    過てモンベツフト〔門別川口〕
    ‥‥ 此處會所元と成たり。
     ‥‥ サル〔沙流〕會所 (勤番所、通行や、板くら、漁屋、馬や、大工小屋、鍛冶や、土人雇小屋)
    人別 (交政五改、千ニ百十五人。安政三改、千三百廿餘人) 多く、
    産物、(いわし)・昆布・鮭・海鼠(なまこ)鮫殻(さめのから)(たら)雑魚(ざこ)多し。
    濱形巳午(みうま)向、(そうじ)て平濱船懸なし、沖積也。
    小山の中腹義經社 (御丈一尺貳三寸) 合殿辨天、傍に天満宮・蛭子(ひるこ)社。
    また畑多し。
    元松前家々臣小林某給所。
    (ころ)は運上屋サル〔沙流〕の川端に有しを、文化二(丑)年此處え移す。
    然に呑水無故、山より(かけい)を以て取用ゆ。
    廻舶箱館より寅卯風にて出、酉戌にて入津す。
    土地至て肥沃なり。


    引用文献
    • 『東蝦夷地各場所様子大概書』「佐留場所大概書」, 1808
      • 北海道[編]『新北海道史 第7巻 史料1』, 北海道, 1969. pp.539-543
    • 松浦武四郎 (1870) :『東蝦夷日誌』「沙流領」
      • 吉田常吉[編]『蝦夷日誌 上 東蝦夷日誌』, 時事通信社, 1984, pp.127-141.