Up 平賀 作成: 2020-01-29
更新: 2020-01-29


      松浦武四郎 (1858), pp.643
      ヒラカ村
    此処平山にして同じく槲柏(かしわなら)原にして、下草苅かや・白茨(茅)等多し。
    其名義は此村の下に大なる平崩有る故に号るとかや。
    人家二十四軒一条の市町の如く立並びぬ。
    此辺畑多し。
    此処水に案じなし。

      山田秀三 (1969), pp.28,29
    平賀(ぴらか) (日高間門別町)
    ピラ・カ Pira-ka「崖・(の) 上」
    カ ka は、「上」「表面」の意。
    日高本線の富川駅で下車すると、そこはアイヌ文化の栄えた、沙流川の川口である。
    そこから沙流川筋の首邑平取(びらとり)の方に向かって川を溯ると、富川の町並みを外れた辺りで、対岸の長い崖続きが見える。
    その崖がこの地名のもとになった ピラ(崖) で、その崖の「上」に昔、大きな部落が栄えた。
    その部落の名をいうときには ピラ・カ・ウン・コタン「崖・上・の・村」と呼んだ。
    ウン un は前記したように、「ある」であるが、この形の地名の場合は、日本語地名と同じように「の」と訳した方がお互いには分かりよい。
     その崖の名の方は、大変長いが コタン(ネ)・エ・レ・コ・ピラ Kotan-e-re-kor-pira「村(が)・それで・名(を)・持つ・崖」と呼ばれた。
    「平賀という村が、それがあるので名がついた、その崖」という意味である。
    もちろん地名であるから、普通は簡略な形が大部分であるが、改まって聞くと、アイヌ風な、こんな折目正しい言葉を、時に聞かされることがある。 もちろんそれでも立派な地名なのである。
    地名としての音は、続けて「コタン()レコピラ」であった。‥‥
     平賀村の人々は、その後何度も引越しをした。
    崖を下り、川を渡って対岸の平地に部落を移した所が、今日普通いわれる平賀である。‥‥
    その平賀の人の一部が、後にまた逆に川を渡り直して住んだ所も新平賀といった (現称は「福満」) 。
     なお、沙流地方出身で、平賀 (ひらが) の姓を名乗る人は、この平賀 (びらか) から出た人である。 明治になって、地名に因んでこの姓をつけたのであった。 ユーカラの伝承で名高い平賀(ひらが)さだもさんもその一人である。



    引用文献
    • 松浦武四郎 (1858) :『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌』「沙留誌 壱」
      • 高倉新一郎[校訂], 秋葉実[解読]『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌』(上・中・下), 北海道出版企画センター, 1985.
    • 山田秀三 (1969)「北海道のアイヌ地名十二話」
      • 『山田秀三著作集 アイヌ語地名の研究 1』, 草風館, 1995, pp.13-72.