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松浦武四郎 (1858), pp.643
ヒラカ村
此処平山にして同じく槲柏原にして、下草苅かや・白茨(茅)等多し。
其名義は此村の下に大なる平崩有る故に号るとかや。
人家二十四軒一条の市町の如く立並びぬ。
此辺畑多し。
此処水に案じなし。
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山田秀三 (1969), pp.28,29
平賀 (日高間門別町)
ピラ・カ Pira-ka「崖・(の) 上」
カ ka は、「上」「表面」の意。
日高本線の富川駅で下車すると、そこはアイヌ文化の栄えた、沙流川の川口である。
そこから沙流川筋の首邑平取の方に向かって川を溯ると、富川の町並みを外れた辺りで、対岸の長い崖続きが見える。
その崖がこの地名のもとになった ピラ(崖) で、その崖の「上」に昔、大きな部落が栄えた。
その部落の名をいうときには ピラ・カ・ウン・コタン「崖・上・の・村」と呼んだ。
ウン un は前記したように、「ある」であるが、この形の地名の場合は、日本語地名と同じように「の」と訳した方がお互いには分かりよい。
その崖の名の方は、大変長いが コタン(ネ)・エ・レ・コル・ピラ Kotan-e-re-kor-pira「村(が)・それで・名(を)・持つ・崖」と呼ばれた。
「平賀という村が、それがあるので名がついた、その崖」という意味である。
もちろん地名であるから、普通は簡略な形が大部分であるが、改まって聞くと、アイヌ風な、こんな折目正しい言葉を、時に聞かされることがある。
もちろんそれでも立派な地名なのである。
地名としての音は、続けて「コタンネレコルピラ」であった。‥‥
平賀村の人々は、その後何度も引越しをした。
崖を下り、川を渡って対岸の平地に部落を移した所が、今日普通いわれる平賀である。‥‥
その平賀の人の一部が、後にまた逆に川を渡り直して住んだ所も新平賀といった (現称は「福満」) 。
なお、沙流地方出身で、平賀 (ひらが) の姓を名乗る人は、この平賀 (びらか) から出た人である。
明治になって、地名に因んでこの姓をつけたのであった。
ユーカラの伝承で名高い平賀さだもさんもその一人である。
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引用文献
- 松浦武四郎 (1858) :『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌』「沙留誌 壱」
- 高倉新一郎[校訂], 秋葉実[解読]『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌』(上・中・下), 北海道出版企画センター, 1985.
- 山田秀三 (1969)「北海道のアイヌ地名十二話」
- 『山田秀三著作集 アイヌ語地名の研究 1』, 草風館, 1995, pp.13-72.
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