Up 平取 作成: 2020-01-29
更新: 2020-01-31


      松浦武四郎 (1856), p.532
    扨又此処よりしばし (一里) にて字ヒラトリ村、昔しは十七軒有し由。
    当時二十八軒 ‥‥ 有。
    また川の東にビラトリ山、ヒラトリヘツ何れも此村分なるよし。
    村の後ろにはハヨヒラといへる山有て源義経を祭りし杜有由也。

      松浦武四郎 (1858), pp.673,674
    扨また西岸ヲハウシナイの少し上の方に、人家三十一軒有。
    是を今は
      ビラトリ村
    と云り。

      山田秀三 (1969), p.29
    平取(びらとり) (日高国沙流郡)
    ピラトゥ Piratur, ピラウトゥ Pira-utur, ピラトゥリ Pira-utur-i
     少しずつ違う三つの形が伝えられている。 どれも本当だろう。 アイヌ地名は、人によって少し形が違うことがよくあるのであった。
     現在の市街地は沙流川の西岸にあるが、普の部落は東岸にあったものらしい。
    市街地から対岸を望むと、崖の間から二本の川が流れ出して沙流川に入っていて、その名は次のとおりである。
      パンケ・ピラ・ウトゥ・ナイ「下の・崖・の間の・川」
      ペンケ・ピラ・ウトゥ・ナイ「上の・崖・の間の・川」
     松浦武四郎によると、部落は古くはこの二つのピラウトゥナイの辺りにあったのだそうだ。
    その人々が対岸に家をつくり、部落を構えても、前の地名を引越しさせて使う。
    その中に、語尾のナイを略してピラウトゥと呼ぶようになったのであろう。


  • ハヨピラ
      松浦武四郎 (1858), p.681,682
      義経大明神の杜
    三尺計の小社、数十丈の懸崖の上に立たり。
    五十年前迄は甲胃の尊像といへる者有し処、今其を会所え下げて祭り、此処は其形計の社有也。
    土人是を義経様と号、またヒラトリ大明神とも申たり。‥‥‥
    此山を
      ハヨヒラ
    と云り。
    其義しらず。
    其下ふちにして目も(くらむ)也。

      同上, p.684

      久保寺逸彦 (1956), p.201
    沙流の人々は、平取の村上にある Haiopira の断崖を聖地として、祭を行う際には、必ず之を遥拝する習わしがある。
    Hai-o-pira は、アイヌの始祖 Okikurmi, Ainu-rak-kur が天から人界に降臨し、この崖上に城塞を構え住んで、アイヌ文化の基を開いた聖地と伝えられている所で、Okikurmi が、人間界を去った後にも、その城址には留守を守る Chash-punki (<城の番人) がいるので、その神に対して、献酒遥拝するのだと云う。


  • 地勢
参考:参謀本部 (1919)
(地図中に記された山道 (破線) ──これはアイヌ(みち)ということになる──を赤色で強調)





    引用文献
    • 松浦武四郎 (1856) :『武四郎廻浦日誌』, 1856
      • 『竹四郎廻浦日記』(上・下), 北海道出版企画センター, 1978.
    • 松浦武四郎 (1858) :『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌』「沙留誌 弐」
      • 高倉新一郎[校訂], 秋葉実[解読]『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌』(上・中・下), 北海道出版企画センター, 1985. pp.669-702.
    • 久保寺逸彦 (1956) :「北海道アイヌの葬制一沙流アイヌを中心として」
      • 民俗学研究, 第20巻, 1-2号, 3-4号, 1956.
      • 収載 : 佐々木利和[編]『久保寺逸彦著作集1: アイヌ民族の宗教と儀礼』, 草風館, 2001, pp.103-263
    • 山田秀三 (1969) :「北海道のアイヌ地名十二話」
      • 『山田秀三著作集 アイヌ語地名の研究 1』, 草風館, 1995, pp.13-72.
    • 参謀本部 (1919) :「沙璢太」五万分一地図, 1919