Up サル・モンベツ/松浦武四郎第4回蝦夷地調査(1856)
──『武四郎廻浦日記』「巻の二十八」
作成: 2019-01-08
更新: 2019-01-27


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      松浦武四郎 (1856-8), pp.527-535
    サル会所元
    此所未申向の浜也。
    後ろの方少し岡山有。
    浜は皆白砂、岡は皆砂((まじり))の地味也。
    会所一棟、通行屋一棟 (此通行屋当時勤番所に相成る也)、勤番・下役・同心相詰るなり。
    御備米蔵、板蔵七棟、雑蔵五戸、細工小屋二棟、鍛冶屋一棟、煎海鼠製蔵一棟、雇夷人小屋二棟、馬屋一棟、船囲蔵二棟有。
    又当場所内へ出稼惣て五ケ所、茅屋蔵各一棟づゝ有りと。
    上にヒラカに祭る処の義経大明神を勧請の富美々敷立たり。
    並て弁天社、天満宮、金比羅、蛭子の社等各小社並立たり。
    此処先私領の時は松前家々臣小林嘉門給所にて当所の土人共半は三ツ石・シツナイ辺え昆布出稼に出候。
    二八に分ち候ひ又ユウフツ場所の内マゝツフトと云処にも秋より出稼を致し鮭漁致し来り候処、文化元子年より此儀相止み、ユウフツ付チトセ川の内にて漁事致し来る。
    則当時迄仕来候由。
    其鮭ユウフツとサルと半々に分ち候由に御座候。
    其節は当会所も此所にて無、サル川の辺に有之候由によって、サルの名在るなり。
    全此地は本名モンベツブト申処の由に有之候。
    其頃迄は場所の荷物も積取候に、結立船と申藤蔓にて結合候船のみにて有之候を、此場所下りて初て三百石といへる船を(こしらえ)候たりしとかや。
    文化六巳のとし改惣家数二百三十六軒、人別千十三人、馬三十一疋。
    其後文政五壬午のとし二百三十二軒、人別千二百十五人のよし。
    当年は二百六十九軒、人別千百三十四人、馬八十疋有之候由也。
    其後ろには少し菜園を作り、(ふじ)豆・馬鈴芋・芦肥・水晶管等を耕((す))
    また詰合大西某厳敷帰俗を教諭しられけれども、当所は蝦夷地一円の惣根元サルの都と云等申未だ承引不致よし聞侍りけるもおかし。
    前に標柱 (ニイカツフ会所へ六里六丁、ユウフツ会所へ九里 )有。

    三日。
    夜の間より出立。
    此処より陸路と浜とに分る。
    浜を行時はモンへツ (川有)、シノタイ、モノタイ、サルフト (川有る也) 等通りてフイハフ崎へ出るよし。
    是よりムカワ手前なる (トンムユイ) にて本道と出会とかや。
    陸路二三丁にして
    モンベツ
    川有、橋を架る。
    此処より平岡道、柏槲(かしわ)の林にかゝるなり。
    地名モンへツ前に云ごとく遅流にして、水悪く、魚類似嘉魚と桃花魚(うぐい)・雑喉のみ也。
    此所より陸は三里程上りて西岸にモンへツ、村本名ヲサツナイなるが、むかしは蝦夷家十
    一軒有し由。
    当時八軒 ( ‥‥‥ ) の内壱軒は合宿有て七棟に成居るよし也。
    又此所より川岸通り三里上り字ニナツミ、当時六軒 ( ‥‥‥ ) 有之候。
    此村文化頃に無りし由。
    此少し上なる字タツクルより引越たりと聞り。
    又此処より二里程上に字トナイと云処有。
    此処より東北二流と成、東はアツベツえ山越道有。
    北はサル本川すじへ山越有。
    字カヒテと云に出るよし。
    源より川口迄凡十二里斗。
    右ニナツミ村迄は(くり)木船
    を以て往来するによろし。
    樹木本川すじに同じ。
    キナチヤウシナイ
    ヲヒリマコツ
    ウエンシャヲマフ
    トンニカ
    (すべ)檞柏(かしわ)の木立、下草は萩と□(竹かんむり+若)のみ也。
    昔は此処にも土人小屋有しが今は不見。
    此辺よりヒラカえの道有。
    至て近しと。
    ヲコタヌサル
    少しの谷間下りて又上る。
    昔土人小屋有。今はなし。
    此二ケ村共皆ヒラカへ引越したるなるべし。
    少し行、川端に出る。
    トラシロシケ
    トイフル
    サルブツ
    本名サルベツなるべし。
    ブツと云時は此川の川口也。
    川巾六十余間、深し。
    東地の三大河とす。
    舟渡し越して小休所一棟、仮屋有。
    渡し守一人。
    此川、洪水の後は時々崖崩て其川形変革す。
    大古は此少し上に会所有し由也。
    魚類、鱒・(あめ)・チライ・桃花魚・雑喉は多し。
    鱒も昇るといへども至て少し。
    冬分はシユシャモも溯るよし。
    渡場より少し (十八丁) 字サルフト村、昔は十五軒有。
    当時十三軒 ( ‥‥‥ ) 有。
    此処よりまた上り (十五丁) て川東に字ビラカ村、此処昔時より廿五軒 ( ‥‥‥ ) 有。
    又是より凡二里半斗りも上り同じく東岸に字シユムンコツ村、昔しは六軒、当時十七軒 ( ‥‥‥ ) 有。
    扨是より並て昔は (十八丁) チヱツホツナイと云村十軒程有し由なるが、今シユムンコツに合せしと見ゆるが、其村とて別になし。
    扨其川の西岸なる方凡一里斗にして字ニナ村、昔しは二十五軒。
    当時十六軒 ( ‥‥‥ ) 有。
    ニナ川相応の川なり。
    少し上の方にバンケニナ、ベンケニナといへる二山(こつ)突として見へたり。
    扨又此処よりしばし (一里) にて字ヒラトリ村、昔しは十七軒有し由。
    当時二十八軒 ( ‥‥‥ ) 有。
    また川の東にビラトリ山、ヒラトリヘツ何れも此村分なるよし。
    村の後ろにはハヨヒラといへる山有て源義経を祭りし杜有由也。
    川東へ越て凡半里斗にして字ニフタニ、昔は十一軒有し由。
    当時他村より段々引越来りて二十五軒 ( ‥‥‥ ) 有るよし。
    並てビバウシ村、此所昔し十軒程有し由。
    当時はニナの寄村に成しよし也。
    又山道一里斗越て字カンカン、此処にもまた (十五丁) 昔二軒程有し由。
    今は一軒もなし。
    又少し上リ (十八丁) 字ベナコリ、昔十三軒。
    当時も其位有と。
    此村もニヲヱの寄村なるよし。
    少々山越至て小川一つ有。
    こへて (凡一里) ニヲヱ村、昔し五軒有之由。
    当時二ケ村にして (へナコリ、ニヲヱ) 二十四軒に成由。 ( ‥‥‥ )
    扨此へナコリよりニヲヱへ越る処より山道二里斗上に溯りて字ヌツケへツ村と云有。
    此処に、昔しより八軒今に有 ( ‥‥‥ ) よし。
    此村よりまた六里も此川筋を溯るとシヱトユと云有。
    其上リヒラと云高山有て是より流れ来ると。
    またリヒラの後はシビチヤリの源に当るとかや。
    またヌツケへツより東の方二里も山越する時はモンベツ川すじの山え出るよし。
    是また凡二里斗りと聞り。
    又ホロサルの方へも二里斗の山越にて出るよし。
    扨又ニヲヱより野道一里斗上りて川の西岸え越て字モビラ、此処昔時一軒有し由。
    今はなし。
    並て (五丁) 字ヲサツナイ、昔時は十一軒、今七軒 ( ‥‥‥ ) 有。
    此村より西え山越する時はムカワえ出るよし也。
    又少し溯りて字ホロケソマツフ、昔し七軒有し由。
    当時はホロサルと合せし由也。
    少しまた上りてホロサル、昔し五軒有。
    昔しは此処より壱里も上に字イケウシリと云処に六軒有しと。
    当時は皆ホロサルへ引移り居るよし也。
    此処よりまた十余里川上字ウシヤブトと云処より西北の方に石カリ越の山道有る由。
    又其より五里程溯りて字チロアイと云山有。
    其よりまた二日路も上りてシケヤリと云有。
    其より五里程はサルの領分なりと。
    其辺トカチ河源のシントクの西南に当ると聞り。
    惣て此場所の内山々(とど)・檜・千頭柏・檞・樺の類多し。
    川筋は皆赤楊(ハンノキ)・柳のみ也。鳥獣内地に有るもの無はなし。
    実に此川筋を当地第一の地味とす。
    ウエンチセ 渡し場より少し上り
    ヒラウトル
    フイハフ
    此辺惣て檞柏の樹立、下は□(竹かんむり+若)・萩のみ也。
    ユウフツ、サルの境目也。
    小休所有。
    小川有て橋を架る。
    前に標柱 (西ユウフツ領白ヲイ境迄十三里六丁、東サル領ニイカツフ境迄七里)有。
    又同じ様成道をしばし行。



    引用文献
    • 松浦武四郎 (1856-8) :『武四郎廻浦日誌』「巻の二十八」
      • 『竹四郎廻浦日記 下』, 北海道出版企画センター, 1978, pp.507-536