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松浦武四郎 (1858), p.628
余はクツタラより山越なしてヌツケへツえ出たり。
此川惣て魚類少し。
鯇・チライ・桃花魚・雑喉は有。
鮭は甚まれなり。
依て老婆、女の子等は畑作を以て生活す。
粟・稗・大根・蕪・呱吧芋・隠元・てなし小豆・大豆また芥子を作りしを見たり。
南瓜・胡瓜は頗るよく出来ぬと語りたり。
また山草原にして蕎麦葉貝母わけで多し。
此地の半喰料にも当るよし也。
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松浦武四郎 (1870), pp.132-134
是より峯傳ひ下りて(凡三十丁)、
△ヌツケベツ〔貫氣別〕なるコタンベツの乙名 (召連アムキリの親シラウエンカ)家に宿す。
名義、ヌツケは濁の義也。
是より南岸を下り
チへナイ(源チへナイ岳と云)、
ニヨイ(人家九軒)、
爰にニソレウシ(八十七才)と言老人有。
其娘アシリマトク(卅七才)と云、未だ夫を持たず孝養なしける故に、聊兩人に手當遣し出に、
ウムンチヤシ(城跡)、
ヲタシユイ(小川)、
トレフンナイ。
従レ是北岸へ渡り、
イナツミ(小川)、シケレベ人家五軒)、セトシベ(小川)、キタルシナイ(小川)、
是より船にて乙名の家に歸る。
此邊平場(幅一里、長三里)、土地肥沃、是を開けば見込有也。
夜土人等より隠元豆・胡瓜を貰ふ。
扨土人は雪隠なくして、大木二本横たへ、其上にて便する事なるが、爰にて始て雪隠を見たり。
ととろせく はたものうえて えみしらも わが日の本の 光りこふらむ
七月朔日。
發舟 ヌツケベツに上る(右小川)。
ケナシヒホ(左川)、タユンナイ(同)、イヘミシナイ(右)過て二股(凡一里)、左りをヌカ平〔糠平・額平〕と云。
右本川を上るに、
チセニカルシ(右川)、
ニタツイ、
此邊水流急にして上り難故舟を下し、余は上陸してヌカ平の川筋に出たり (陸地凡一里)。
其川上の大略を聞に、兩岸小石多く、凡二日路にて源に至る。
兩山聳立、左右數十ヶ所の瀧有。
其上はヌツケベツ〔貫氣別〕岳と云る高山の後ろは、十勝のビバイロに當ると。
扨ヌカ平〔糠平・額平〕(川幅凡卅間) に出、爰をヌペトウマイ(左川) と云。
涙川の義、
源は雪路二日にして二股に至り、
右をシヨクシベツ [現 宿主別川] と云、源シヨクシベツ岳と云有、其後ろ是もビボクに當る。
左りヌカ平 [現 額平川] 、其源兩山峨々とし、川筋大岩簇々、上にユクルベシベ岳と云、又糠平岳とも云高山有。
後ろはシビチヤリ〔染退〕川 [現 沙流川] に當る。
又十勝のメモロ〔芽室〕え近しと。
四時雪有、山皆青木なりと。
さる山の 雪間傳ひに ともしする えみしは夏も しらですぐらん
等戯れ、二股迄歸れば、舟を繋ぎ我等を待が故に、棹して暫時に下りぬ。
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引用文献
- 松浦武四郎 (1858) :『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌』「戊午第三十八巻 東部 茂無辺都誌 全」
- 高倉新一郎[校訂], 秋葉実[解読]『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 中巻』, 北海道出版企画センター, 1985, pp.609-634.
- 松浦武四郎 (1859) :『東西蝦夷山川地理取調図』
- 松浦武四郎 (1870) :『東蝦夷日誌』「沙流領」
- 吉田常吉[編]『蝦夷日誌 上 東蝦夷日誌』, 時事通信社, 1984, pp.127-141.
- 扇谷昌康, 島田健一 (1988) :『沙流郡のアイヌ語地名I』,北海道出版企画センター, 1988
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