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松浦武四郎 (1870), pp.134-138
二日。
キムンサンケ (シケレベ乙名) を先導とし、(十餘町) フシコベツ(下川) 過て上りチエトイナイ(小川) に出、
爰に鹿多く土を喰たり。
是チエトイ [珪藻土] 也。
此邊の者も昔は是を喰しと云り。
上り(凡一り)峠に出、(半り) 下りて (従レ是ポロサル〔幌去〕川筋)
△キタルシナイに出、澤ま々(凡一り)下り川端に至るや、兩人川に飛入、向より刳舟を乗来り一同を渡しぬ。
其勢實にいさましく有たり。
サルベツ〔沙流川〕(川幅六十餘間) 上にポルサル〔幌去〕村 (人家廿二軒) リキナシコロ家に到るや、シユクトカ爺は題頭菌(まいたけ)・小鹿一匹、乙名(シユクシナ)妻は鱒・鴈豆を持来。
地形南向畑多く、粟・稗・南瓜・胡瓜・呱吧芋・手なし ・豇豆・麻・烟草・蕪の類多く作たり。
實に蝦夷第一の土地なるべし。
午後舟にて上る。
ヲゝコツナイ(右川)、タンネサル(右平野)、シユツタ(右川)、
フウレナイ(左川)
此邊より大岩簇々川中に突出し甚危し。
依て従レ是舟を禁じ有よし。
然る〔に〕強て遣るや、兩岸愈嶮也。
ルツチユツフ(左川) 一條の瀑布と成落。
トナエ(左小川)
此邊白き丸石のみの川原也。
夕陽是に落るさま實に奇観なるべし。
此處にて舟を曳上、櫂もて穹盧を作り宿す (従二ポルサル〔幌去〕一え〔衍〕二り半)。
飯を炊んとせしに、石飛刎て其邊りに居難く、甚困りたり。
三日。
出立。
山皆椴に成、地形一變す。
又檜も有と。
夷地檜の有は此處計也。
是を材木山と云。
當處の材木皆爰より出せば也。
ルツケウ(右平)、イケウレリ(右川)、幷てムセウ(左川)
此川鱒多き由にて、土人等梁を架て漁し居たり。
ムセウは煑て喰義也。
川筋小石多く、源はムカワ〔鵡川〕の上に至ると。
舟を繋ぎ岩間傳ひ上る。
ケナシヨロシナイ(右川)、レタリヲマナイ(同)過て、岩愈尖、歩窮しが故、其大略を聞に、處々無名の瀧有、實に奇と云ベし。
きて見ベき 人もあらじを 山姫の 瀧の白布 なにゝおるらん
従レ是上はバンケナイ(右小川)、ベンケナイ(同)、エネンケナイ(同)、シキシヤナイ(右川、幅六七間)
此源にアネノボリ(尖り岳の義) と云佛飯の如き山有。
アネは尖りし事を云也。
此後ろ十勝のサヲロに當る。
過てイワチシ〔岩知志〕(右高山二有、其間より落る)、
イワナイ(左川)、フツホコマ(同)
此上にセタニウシ岳と云有。
過てモサラ(右股)、ホリカウエンサラ(左川)、シイサラ(右川)
此邊惣て大轉太石。
源夕張の南つゞきの山に至る(シユツカトク、シユクシナ申口)と聞り。
扨舟して下るに、舷より水飛入、其危き言んかたなし。
軽舟已過萬重山等口吟てポロサル〔幌去〕に宿。
此村、昔し十勝より来りし者と、津軽の字鐵より来りし者の子孫なりと。
今に乙名また外の家等にも持来りしと云種々の寶物有と。
此地惣ての元地にて、爰の言は何處にても通ざる處なしと。
其譬を云はゞ、膳を何處にてもイタと云、イタは板也。
當所にてヲツゝケと云り。
家居もまた他處より太く、其餝り附も見事にし、客の應對も惣て慇懃なり。
夷地にて庭の掃除さする等は無に、此處にては朝夕叮嚀に掃除等し、其風大に内地のさまに似たりければ、
世ばなれし 保路さる山の 奥えみし 都の手ぶり いつならひけん
四日。
早晨解纜ともづなをときて下る。
ヒフチンナイ(東川)、ポロケシヨマ(西中川、源小石多し)過て
モウセウシナイ(西川) 瀧に成落、樹間より眺望の風景よろし。
ロクントエト(東山)、モルヘシベ(東畑)、トナイ(西小川、小石多し)
此源にソウホコマとて數丈の瀧有。
タユシナイ(東川)、トユシナイ(東川)、トツホヲツナイ(東川)、
ヲサツナイ〔長知内〕(西岸、人家廿軒、中川小石多し)
名義、口が干る義也。
タユシナイ(西川)、モ平(東、黒岩岬)、キソマフ(西川)、アノヒ(西川)、ヒタンノシケヲマナイ(同)、
ヘテウコヒ (二股、是ポロサル〔幌去〕とヌカピラ〔糠平〕の別れ處なり)
此邊よく開らけ、此方彼方に人家も見へ聊夷地の心持はせざるなり。
是より水勢大に遅く成たり。
ヘヲサン(西川)、ポロコツコロ(東川)過て
ベナコリ(東川、人家十一軒)
名義、昔外より子供の育が能き故に號しと。
トウナイ(西川)、平ケシヨマ(東川)、ニトツミ(東川)
此處近年迄人家有しが、今モンベツ〔門別〕に引移りでなし。
クトホウンナイ(西川)、
カンカン(東川、人家三軒有、源エサヲマカンカン岳と云)
名義、鹿の腸を童子へ神が呉給ひしに依て號く。
越てビハウシ(東川、畑有、人家十五軒)、
ヲホウシナイ(西川)、
クロマトマナイ(同)
此處文化度金丁を入れて金を掘し跡有。
其邊り鑛石多く捨れり。
ルヲマナイ(西川)、ヲサツ(東川)、ヒンニ(西川)、
ウロイロシキ岳(西岸小山)
雑樹陰森として川中に聳たり。
コヲイ(東川)
源に温泉有。
タユシナイ(西川)、シユマルフネナイ(同)、
ニブタニ〔二風谷〕(東小川、畑有、人家廿七軒)
名義、昔し此處の細工人木太刀を作り、其柄に金物を三ツ附て奉りしと云故事有。
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同上, pp.138-141
過てフウレナイ(東川)
此邊り皆、村境/\に標柱を立有。
村々より案内に出る者、其地名と譯を問ふに、我持分の處迄教へ、境より外は少も教えず。
其仕馴し、恰も内地にて順見使等え村役の出る如く、何を聞ても只エラマシカレ/\と答けるぞおかし。
ヒラチミ(西川)、ウトルヲマナイ(同)、トコンウトロマ(東川)、
ハヨ平(西岸、平高十餘丈)
舟を寄て分二榛荊一て上る、凡百餘間、惣て胡枝花・芒繁茂し、小綉毬咲盛て水を照す。
上には椴五六株老立たり。
俯レ下や恰如レ屏碧水溶々、其風光恰も奥の北上河の高館の趣に似たり。
仰レ首重疊たる連山の上に糠平山・尖岳・沙流山等空を凌て聳ゆ。
岩間には石楠花・雪もゆう、種々目馴異草一面に生じ、
此處に一ツの小社を安置し、毘羅取大明神との額を懸し、八十年前は卿〔源義經〕の甲胃の像有しが、今は其像會所元に有と。
[義經] 公、高館を去っての地に渡り玉ひ、此川筋に城郭を作り、時々爰に遊覧なし玉ひし處なりと。
其地形の高館に似たるも奇と言べし。
額拜して一首を木幣にしるし奉りて、
蝦夷人が 作る荒木の みあらかに ますぞと思へば 袖ぬれにけり
下りてノホリハヲマナイ(西川)、平ハヲマ(東川)、アゝベツ(東岸川、小石多し) 越て
ヒラトリ〔平取〕村 (西小川、人家卅一軒) 一條の町に成、大なる家有。
ヲハウシナイ(西川)、セメ(同)、ニチンケウ(東小川)、ベンケニナ(同)、
ニナ〔荷菜〕(人家跡、畑有)
此邊平地に成、楊・赤楊原に成たり。
ヲラウネナイ(西川)、サラハ村(人家十九軒)、ポロトコン(西小山)、セタラコツ(同小山)、
トミルベシベ(東小川)
昔し義經公の大軍が越たる故事有。
シリ(東川)、
シユムンコツ〔紫雲古津〕村 (東岸、人家三十餘軒)
本名シュンコツにして、西地面の義也。
畑多く有。
夕方乙女 (イヨラツケ) 家に宿す。
是召連しトレアンの兄也。
家の正面、行器八十餘、太刀・短刀百餘振、鎗五本を餝(飾)り、余が来るを待もふけて挂甲二領を餝りたり。
何れも古製の物なれども、余此道に暗らきが故、目の及ざるぞ遺恨なり。
五日
平明、舟を艤下る(東川)。
シラウ(東川)
源はシユルクシヌタと云て、一里計の一面烏頭の生たる處より来る。
ベンケヲツフネイ(東川)、ヲツフネイ(同)、タツコフへンコロクシナイ(同)、タツコフ(同小山)、
タツコフハナクシナイ(西)
此山に一ツの瀧有り、風景よろし。
サント(西川)、
エソロカニ(同)
名義、火箸に作る木有と。
同名ユウブツ〔勇拂〕にも有。
按に此木漢名鐵掃木にて、至て火に強き木也。
チヤシコツ(西方)
是義經卿の城跡也と。
時々石□("奴"の下に"石")を出す。
コンカラ(同)、チツヘシコロ(東川)、
トイフル(西川)、ウヨツヘ(東川)、ヒタラバ(小川、人家三軒)、
ヲコタスサル(渡場)
此處東岸に舟を寄せ上るや、會所より今日もヲムシヤなれば早く来れと、馬一匹を廻し呉たり。
扨往来より左り(上の方) の方に入(五丁)、トンニカ〔富仁家〕村 (人家) を過(廿丁)、イクレウシ(小川)、イ夕ゝウシ(小川) 過てヲコタヌサル(小川) の川上を越て行や、小堂有。
見るに彌陀の尊像を安置したり。
其由を聞ば、大西(榮之助)氏が近頃建立せし由。
聞ば、戯に其柱に誌し置。(三丁)
大神の かためし國に いかなれば あらぬ佛の あとをたれけん
ビラカ〔平賀〕村 (人家廿四軒) に行、乙名バフラ (蝦夷第一の舊家也) の家に至るや,慇懃に座を設け、粟飯を炊て我等に出す。
其家筋の事等聞に、何一ツ筆記も無れども、鑿々として答へ、別て感ずべきは、家の系圖と言ものを如レ此語りけるまゝ誌るし置也。
従レ是ウヨロ(小川)、チツベシコロ(小川)、シラウ(小川)、ヤムワツカ(小川)等越て (凡一里) 上るや、シユムシコツ〔紫雲吉津〕に至ると。
トレアンは其道筋早爰に来り待し故、共に會所へ直に下りける。
扨會所には山々の土人寄集り、また石場〔高門〕君も出役にして控書讀渡し、酒飯を皆の者へ被レ下、老も若きも酔を盡し、其國ぷりの哥謡ひ舞楽ミければ、實に是ぞ太古のさまと蜂腰一首を其壁に誌し置。
千代ふてふ 田鶴のむら鳥 うちむれて 雛をはぐゝむ 舞の目出たき
藤原〔石場〕高門
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引用文献
- 松浦武四郎 (1858) :『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌』「戊午第三十八巻 東部 茂無辺都誌 全」
- 高倉新一郎[校訂], 秋葉実[解読]『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 中巻』, 北海道出版企画センター, 1985, pp.609-634.
- 松浦武四郎 (1859) :『東西蝦夷山川地理取調図』
- 松浦武四郎 (1870) :『東蝦夷日誌』「沙流領」
- 吉田常吉[編]『蝦夷日誌 上 東蝦夷日誌』, 時事通信社, 1984, pp.127-141.
- 扇谷昌康, 島田健一 (1988) :『沙流郡のアイヌ語地名I』,北海道出版企画センター, 1988
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