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高倉新一郎 (1959), pp.28,29
この瀬田内は、西蝦夷拙における蝦夷の一大根拠地であったと見え、
享禄二年(1529) 酋長タナイヌが松前を攻撃してから勢当るべからず、
天文五年(1536) 辛うじて平定した時は「以後国内東西安全也」(新羅之記録) といわれ、
二十年にはこの地の酋長ハシタインを天河に移して西蝦夷の総酋長とした。
故にこの所へは古くから商船が出入していたらしく、
アンジェリスはその蝦夷地図にセタナイの付近に蝦夷島を横断する大河を描き、「暇夷人はこの河川を舟に乗り、メナシからセタナイに迄来って彼等の商ひをする」と註をつけているが、
事実セタナイに落ちるトシベツ川を遡ると比較的容易に東蝦夷地の国縫に出ることが出来たのである。
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引用文献
- 高倉新一郎 (1959) :『蝦夷地』, 至文堂 (日本歴史新書), 1959
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