Up | <国家 - アイヌ差別>連関 | 作成: 2017-03-14 更新: 2017-03-14 |
この「アイヌ学者」は,「国家/体制 → アイヌ差別」の連関を立てて「アイヌ差別」の主題を立てる者である。
なぜ,この構えになるのか。 「国家/体制 → アイヌ差別」は,対偶が「反アイヌ差別 → 反国家/体制」である。 彼らが「アイヌ差別」の主題を立てるのは,「反アイヌ差別」に「反国家/体制」の契機を見るからである。 実際,彼らは,現国家/体制に対する政治的アンチのイデオロギー (所謂「左翼イデオロギー」) につく者たちである。 彼らにおいては,小学生のいじめが国家/体制とつながる。 彼らにおいては,「反アイヌ差別」のキャンペーンは,「反国家/体制運動」と位置づけられるものになる。 彼らは,この構えを以て,「アイヌ民族」のことばを用いる者になる。 なぜなら,「反アイヌ差別」キャンペーンは,アイヌがあってのものであり,そしてアイヌをいまに存在させる形は「アイヌ民族」の他にはないからである。 これはまるで,「アイヌ」を政治運動のだしに使っているみたいではないか。 「まるで」も「みたい」もない。 まさにそうなのである。 アイヌ系統者 (先祖にアイヌがいる者) のうち「アイヌ民族」に括られようとする者は,ほんの僅かである。 圧倒的多数は,括られるのを御免こうむるという者である。 ただし,「アイヌ学者」の名誉のためにこれは言っておかねばならないが,彼らはさほど意識的/確信犯的に「アイヌ民族」のことばを使っているわけではない。 彼らは,もともと,<ことば・概念>をよくわかっていない者たちなのである。 <ことば・概念>がわかっているとは,簡単に言うと,「内包・外延」の意味がわかっているということである。 「アイヌ学者」は,ことばを使うとき,そのことばの外延を意識することがない。 「アイヌ差別」「アイヌ民族」のことばを使うとき,これの<実際・実数>の意識がない。 こうして,全称 (「遍く」) になってしまうのである。
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