Up | 「アイヌモシリ」 | 作成: 2017-03-04 更新: 2017-03-09 |
彼らは,このキャンペーンのキャッチコピーに「アイヌモシリ」を用いる。 「アイヌモシリ」の語の出処は,つぎのような「Ignacio Morera」の引用である:
ただしこれは,《蝦夷は蝦夷人によってアイノモソリと呼ばれている》の意味にはならない。 「アイノモソリ」を言った者は,蝦夷の外に出て自分の棲んでいる土地を問われた者である。 そしてこの問いに答えるのに,「アイノモソリ」の表現をつくった。 これは,《蝦夷は蝦夷人によってアイノモソリと呼ばれている》ということではない。 高倉の「アイノはアイヌの自称で man の意味、モソリはアイヌ語のモシリで島、アイヌモシリとはアイヌが住む島の意である」も,解釈のし過ぎである。 「北海道はアイヌの地だ,われわれに返せ」キャンペーンに「アイヌモシリ」を用いる者は,「アイヌモシリ」を「和人の地」の対義語にしていることになる。 (この論法だと,「和人の土地」は「シサムモシリ」ということになる。) そこで,「アイヌモシリ」ということばが,このようなことばとして本当にあったのかというはなしになり,上のような出処のはなしになるわけである。 実際,ことばのロジックでいうなら,「アイヌモシリ」は「カムイモシリ」の対義語である。 「あの世」に対する「この世」であり,「神の国」に対する「人の国」である。 また,「アイヌモシリ」の対義語となるべき「和人の土地」は,アイヌ語にはならない。 なぜなら,アイヌには「土地が人に所属」の概念が無いからである。 アイヌ語になるとすれば,「和人の土地」ではなく「和人の国」であり,そしてそのアイヌ語は「シサムコタン」である。 では,「シサムコタン」の対義語は「アイヌコタン」かというと,そうはならない。 「アイヌ」は,アイヌの類概念 (アイヌの全体集合をカテゴリー化する概念) ではないからである。 「アイヌ」は,あくまでも「人」がこれの意味である。 「神」の対義語であって,「和人」の対義語ではない。 「アイヌモシリ」は,《意味不明の「アイヌ語」を持ち出し,これをキャッチコピーにする》の類である。 「イランカラプテ」も,これである。 民族派"アイヌ" は,ひとが知らないのをいいことに,ことばをひとり歩きさせる。 こうなるもとは,民族派"アイヌ" が自分を「アイヌ」と思っていることである。 「アイヌ」を少しは知っていると思っていることである。 そこで,聞きかじったアイヌ語(?) を,堂々とヘンテコに使ってしまう。 もちろん,「アイヌモシリ」のことばがどうのは,瑣末な問題である。 そもそも,おおもとの「北海道はアイヌの地だ,われわれに返せ」が,内容を伴わないただのスローガンである。 実際,「アイヌの地」の具体が立たない。 「われわれ」の具体が立たない。 「返せ」の具体が立たない。
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