『旧土人保護法』は,1970年になって,再び問題になる。
それは,旭川近文の給付地コタンの "アイヌ" の土地問題である。
旭川市は,問題に関して不具合に機能するだけの『旧土人保護法』の廃止に,動き出す。
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五十嵐広三「旭川市政と旧土人保護法」
『コタンの痕跡』, 1971. pp.23-35
pp.26-28.
同法第一条では「北海道旧土人にして農業に従事する者又は従事せんと欲する者には一戸に付土地一万五千坪以内を限り無償で下付することを得」とあり、この条項がこの法の基本であることは間違いない。‥‥‥
旭川の場合、本来アイヌ人に与えられるべき土地を給与予定地として扱ってきたため、昭和九年、アイヌの人たちが本来の自分たちの土地をよこせとの戦の結果、国もその要求を入れて下付せざるを得なくなったが、その時でさえ、同法の適用だけではそれは不可能であったため、特に「旭川市旧土人保護地処分法」という法律をわざわざ作らなければならなかったのである。
要するに同法の基本となる第一条では悪い面だけが残っていてアイヌ人側の権利に属する内容は死んでいるのである。
第二条では同法によって下付した土地を法律で守るのだとして「所有権の制限」をうたっている。
内容としては「相続に因るのほか譲渡することを得ず」「質権、抵当権、地上権又は永小作権を設定することを得ず」などとある。
実はこの法律で現在も厳然として生きている部分はこのところだけであって、その土地を売ったり抵当に入れる場合には、いまでも北海道知事の許可が必要なのである。
憲法では、個人の財産をおかすことはできないと規定されているのに、当然の権利で入手した自分の財産を処分したり、抵当に入れるのに許可が必要なのである。
この許可を得る手続きは、市をとおして北海道庁に提出されるわけだが、書式は複雑で、しかもプライベートな生活内容まで克明に記載しなければならない。
このようにめんどうな手続きが必要なうえ、許可を得るためにかなりの日時を要するわけで、ひところは一年も二年もかかったケースもあったという。
だから緊急に土地を手離さなければならなくなった時、そのことが理由となって必要以上の安い値段で買いたたかれたものだった。
しかも一度そうして許可を得て他人の手に渡れば、いっさいの制限がなくなり、あたりまえの値段で取引きされる。
損をするのはアイヌ人だけなのだ。
さらにわたしが云いたいのは、こうした不条理があってもこの制限項目によってほんとうにアイヌの人の土地を守ることができるのならまだしも、現実には守られていないということだ。
旭川の場合、この法にもとづいて一戸に五町歩の下付をみた。
しかし、アイヌ人は自分でそれだけの土地は管理できないのだとして、実際には一戸に一町歩だけ割渡し、残る四町歩は共有財産であるとして道庁と旭川市の共同責任という形で管理したのだ。
そしてこの共有地に和人の小作人をいれ、その小作料をこの保護法でいう保護施策の費用にあてた。
なんのこととはない、保護施策とはいいながらその財源はアイヌ人たち自身の財産のあがりにほかならないのだ。
ところが農地法ができるや、後法優先の原則に従って、この法律はまったく無力なものとなって小作人に解放されてしまい、アイヌの人たちの手もとにはなにも残らなかったのである。
いうならばアイヌの土地を守るための法律ということで、行政体が権力をもって五分の四もの土地を一方的におさえておきながら、こんどは、そのために不在地主の扱いをうけて土地をうしなう結果となったもので、これはまったく一方的に行政の責任であり、保護法はなんのつっかえにもならなかったことを示している。
そして、アイヌ人がようやく自分の手に残った僅か五分の一の土地について行政権力はまだ「守るのだ」としてアイヌ人の自由にまかせていないのだ。
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ただしこのとき,問題を旭川の特別事情による問題にしないために,「『旧土人保護法』が差別をつくっている」のロジックを加え合わせる。
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五十嵐広三「旭川市政と旧土人保護法」
『コタンの痕跡』, 1971. pp.23,24.
pp.23-25.
『北海道旧土人保護法』といういまわしい、屈辱的な呼び名の法律が現存することや、その法律によってアイヌの人たちが現在でも公文書では『旧土人』と呼ばれていることを知っている人は意外に少ない。‥‥‥
保護法という名とは逆に、法によって人種を差別し、人権をおかし、生活に暗い影をなげかけ続けている。‥‥‥
この法律ではアイヌの人たちを旧土人と呼ぶ。‥‥‥
近代文化を消化吸収し、現代社会に堂々と活躍している人びとを、民主主義を掲げる国の法律が、いまなお「旧土人」などと特異に呼称していることは許されることなのだろうか。
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この動きに対し,「ウタリ協会」の理事 "アイヌ" は,「保護法」を絶つのではなくつなぐことに得があるとして,反対する。
そして,「新法」の実現に取り組むことになる。。
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小川隆吉『おれのウチャシクマ』, 寿郎社, 2015.
p.131-136
ウタリ協会本部は、河野本道氏を委託者として採用し、アイヌ民族史つくりに取り組む事になった。
持ち込まれた資料は、河野三代の集めた資料で、目録その他原本を見ることができた。
札幌支部は沢井アク支部長の提案で、学習会を週一回生活館で行うことにした。
講師に、河野本道氏が来てくれました。
スタートから北海道旧士人保護法が国会に提案された議題、質問者発言、それに対する答弁、それに対する再質問とえんえんと続く。‥‥‥
横路知事のもとで、国会に提出する議案を道議会で審議するための案の検討が始まった。
北海学園大学理事長森本信夫委員長以下14名。
私はウタリ協会の新法特別委員会のメンバーとして参加しました。
そこに北星学園大学の土橋信夫先生がいた。
‥‥‥
旧土人保護法がどんなものかつて学習会をやるまでほとんど知らなかったんだ。
あの学習会で初めてじかに読むことになったんだ。
それは俺ばかりではなかったと思うよ。
河野先生は毎回資料を持ってきてくれて、みんなが読めないとなると大きな声で読んでくれて、そのあと説明もしてくれた。
俺らアイヌは聞く一方だった。
参加者は、沢井アクさん、石井ポンベさん、早苗、その他何人もいた、ときには20人以上もいた。
そのうち参加者は増えたけど酒を飲んでくるものがいたりして混雑したなあ。
あの当時、金はとらないで教えてくれた学者は河野先生しかいなかった。
講師にはそのあと山川力さん、釧路から山本多助エカシにも来てもらった。
ピッキが講演したこともあった。‥‥‥
新法の案がまとまってから、全道六地区で説明会をやった。
俺は、二風谷、旭川、札幌に行った。
説明は事務局長の伊端宏さんが主にやった。
行った先では大変だった。
旭川では、とにかく旧土人保護法があるうちは差別は無くならない。
旧土人保護法さえ無くなればいい。
俺たちは物乞いではないとか。
こっちが、旧土人保護法に代えて次の時代をつくる法律なんだと言ったって分かってくれない。
悔しい思いをした。
旭川では、五十嵐市長の意見が強かった。
平取では生活館でやった。
この法律はアレも欲しい、これも欲しいという法律ではない、と言ったのに、「お前は共産党か」なんて言う声が出たり、「政府にあれこれ言ったってナンモナイさ」なんて諦めの発言もあった。
札幌では、地名をアイヌ語に直して欲しいという声もあった。
俺が説明すると、お前の話は長い、くどいって言われたり。
どの地区も、女の人の発言が多かったし、とにかく一番多かったのは、経済問題。
仕事がない、給料が安い、なんとかして欲しい。
その説明会が三月で、そのあと最後のまとめとなった。
経済問題について「自立化基金」として政府に出させようとなった。
それで五月の総会で、満場一致となった。
法律案の中身をわかりやすくするのに「アイヌ民族に関する法律案の具体的考え方」という冊子をつくったが、それは伊端事務局長がつくった。‥‥‥
法律案を北海道知事──当時は横路さんだった──に出してから、「ウタリ問題懇話会」がつくられ俺もその委員になった。
土橋先生がビデオでアメリカ、カナダの先住権の話しをしたときにはよくわかった。
他の先生の話すことはあんまり理解できなかった。
そのころ、企業組合の倒産のあとで、足元がなんもなくて、抜けた状態だったこともある。
だけどウタリ協会から出た委員はみんな「アイヌ民族に関する法律(案)」をそのまんま法律にして欲しいと発言した。
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こうして,『アイヌ文化振興法』(1997) に至る。
しかし,要求が政治に回収されるとき,それは別モノになる。
──「アイヌ利権」に着地する。
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小川隆吉『おれのウチャシクマ』, 寿郎社, 2015.
pp.137
「アイヌ文化振興法」ができる前の年の総会で、野村義一さんが理事長からおろされた。
野村さんがアイヌ新法を実現する先頭に立っていたんだ。
あの人は、新しいアイヌ法の下でも理事長を続けたいという気持ちがあったと思うよ。
なのに理事会の投票をやったら笹村に決まってしまったんだ。
同時に俺も理事から外された。
あれはクーデターのようなものだった。
ウタリ協会の転換点だったと思う。
うしろで政治家が動いていたのでないか。
一時「アイヌは日本人に同化して消滅した」なんて言う政治家もいた。
野村さんのあとウタリ協会理事長になった笹村は、「文化振興法」がウタリ協会のアイヌ新法案と全然違うのに一言も文句を言わないんだから。
共有財産裁判にも何度も協力を頼みにいったけど全く何もしなかった。
野村さんは裁判を支援する会の顧問になってくれた。
白老まで大脇さんと頼みに行ったんだ。
あとから考えると、旧土人保護法廃止を前提として新法をつくろう、というのは間違いだった。
旧法と一緒に共有財産が持って行かれてしまって、文化、文化の一本になってしまって今のありさまだ。
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ここで小川は,勘違いしているわけである。
事態の流れを「アイヌの事業」のように思っている。
事実は,「アイヌ」は,「アイヌ利権」グループの中の一役割に過ぎないということである。
着地点は最初から「アイヌ利権」と決まっている。
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