- 「アイヌ予算」獲得
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第71回 衆議院 予算委員会第三分科会 昭和48年3月5日 第3号,1973.
http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/syugiin/071/0388/07103050388003.pdf
○岡田(春)分科員
‥‥‥
それからもう一つ,これで終わりますが,昨年の予算のときに, アイヌ民族から、福祉基金をぜひつくってくれ──金額だって少ないのですよ。
三億円なんです。
それでもいいから福祉基金をつくってくれということで、厚生省もその当時やる気になって大蔵省に話をしたら,うまくいかなかった。
しかし,これは昨年の社会労働委員会のここにおられる社会局長の答弁によると,ことしは調査費だけつけたが、
「できれば四十八年度からそれを予算上も実施に移したい,大蔵省もウタリに対してある程度の予算を組むということは反対ではございませんので、計画さえしっかりしたものを持っていけば、これは実現可能だと思います。」
ここまではっきり言っているのです。
ところが,ウタリの福祉基金はことしの予算要求に出てないのです。
調査費だけつけて,あとはそのままにしてしまった。
私はこういうことをやってはしけないのだと思う。
ウタリの人に対してここまで約束しているのならば,四十八年度でどうしてもできなければ,これはもう一度調査費をつけるなり何なりして、この次の年度にやりますとかなんとかということをはっきりしてもらわないと,まさに背信行為だといわなければならない。
これは実際に今後おやりになるのかどうなのか,この点を含めて明快な御答弁を伺って、私は質問を終えたいと思うのです。
○加藤{威)政府委員
ウタリ福祉基金につきましては、確かに先生御指摘のような事実があったわけでございます。
これは実は四十八年度でもできれば具体化したいと考えたのでございますが、問題は、やはりその実態調査を踏まえた上でその福祉基金をつくるかどうかということを要求しようとしたわけでございますが、その実態調査が予算編成までに間に合わなかったという事実があるわけでございます。
そういうことで四十八年度予算につきましてはウタリ基金というものは具体化できなかったわけでございます。
現に北海道庁からの四十八年度予算の、ウタリについてこういうことをやってもらいたいという中にも、ウタリ基金の問題は出てないわけでございます。
そういうことで道庁もやむを得ないと認めたわけでございます。
今後につきましては、この実態調査を踏まえましてウタリ福祉基金という形でやったらいいのかどうか,あるいは補助金政策でやったらいいのかどうか,そういう点を含めまして十分考えたいと思います。
とにかく対策を打ち出すということにいたしたいと思います。
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こうして,「ウタリ福祉基金」は実現した。
昭和49年度が開始年度である。
そしてこれは,以降いままで,つぎのように続いている:
- 昭和47年実態調査
→ 第1 次ウタリ福祉対策(昭和49年度〜昭和55年度)
- 昭和54年実態調査
→ 第2 次ウタリ福祉対策(昭和56年度〜昭和62年度)
- 昭和61年実態調査
→ 第3 次ウタリ福祉対策(昭和63年度〜平成6年度)
- 平成5年実態調査
→ 第4 次ウタリ福祉対策(平成7年度〜平成13年度)
- 平成11年実態調査
→ 第1次アイヌの人たちの生活向上に関する推進方策
(平成14年度〜平成20年度)
- 平成18年実態調査
→ 第2次アイヌの人たちの生活向上に関する推進方策
(平成21年度〜平成27年度)
ちなみに,最近の「アイヌ政策関連予算」の額はつぎの通り:
26年度: 11億4387万円
25年度: 12億 10万円
(「アイヌ生活向上推進方策検討会議の設置について」, 北海道, 2014 )
- 「萱野茂予算」獲得
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第71回 衆議院 予算委員会第三分科会 昭和48年3月5日 第3号,1973.
http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/syugiin/071/0388/07103050388003.pdf
○岡田{春)分科員
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もう一つは、北海道の問題でございますので長官に伺っておきたいのは、アイヌ民族の文化というのは非常にすぐれたものがありますが,たとえばユーカラの伝承などといって,文字がないものですから伝承しているわけですね。
これはアイヌ民族自身がいま残そうというので文字化している。
これなんかでも,自分の経費で、自分の負担で苦しいながらやっているわけですよ。
しかもウエベケレというのがあるそうです。
このウエベケレというのは、北海道の日高にあるアイヌ民族の研究家 が自費でやっている。
本にして五十巻になるそうです。
こういうものは、やはり厚生省にしても北海道開発庁にしても、自分のほうの所管外であっても,これは文部省になるかもしれませんが,こういうものには金を出して,重要な文化資産ということですから,ひとつ積極的に援助をするようなことも、北海道開発庁長官としても積極的な姿勢が私は望ましいのですが,この点を伺っておきたい。
○江崎国務大臣
‥‥‥
なお第二点のウエベケレ,これは五十巻から成るもので、金田一京助先生のお弟子の知里真志保さんですか、自費をもって一生懸命研究して今日完成されたということを聞いております。
これは学術的価値の高いものであれば、当然文部省がその研究の成果を刊行物として補助する,そういう制度もあるように聞いておりますので,これは,文部政務次官もあそこにおられますが,ぜひひとつ協議をいたしまして,これはわが少数民族の高い文化というものを将来に伝える意味からも望ましいことだと思います。
特に金田一先生がなくなられたあと火が消えるというようなことがあってはなりませんので,こういうものについては、特に北海道開発庁としても文部省を中心にひとつできるだけ補助が実現するように推進をしてまいりたい。
‥‥‥
○岡田(春)分科員
若干あなた勘違いがあるのですよ。
完成したんじゃない、いまやっているのです。
それは金田一博士の問題となりますと、アイヌ民族からは問題があるのです。
金田一博士をアイヌ民族が信頼したかどうかというのはまた別問題です。
知里博士の問題になるとまた別ですが、いまやっておるのは新しい問題です。
萱野という人がやっている。
第一巻をいまようやく始めたというところです。
ですから、これは前のと全然違うのですから、ちょうど政務次官もおられまずから、ひとつお調ベいただいて,ぜひ補助をいただきたい。
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こうして,萱野への「援助」が実現する。
以下が,この「援助」の<費用対効果比>である:
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asahi.com 2006-08-12
http://www.asahi.com/culture/news_culture/TKY200608120394.html
アイヌの遺産「金成マツノート」の翻訳打ち切りへ
2006年08月12日23時04分
アイヌ民族の英雄叙事詩・ユーカラが大量に書き残され、貴重な遺産とされる「金成(かんなり)マツノート」の翻訳が打ち切りの危機にある。言語学者の故・金田一京助氏と5月に亡くなった萱野茂氏が約44年間に33話を訳した。さらに49話が残っているが、事業を続けてきた北海道は「一定の成果が出た」として、文化庁などに07年度で終了する意思を伝えている。
ユーカラは、アイヌ民族の間で口頭で語り継がれてきた。英雄ポンヤウンぺが神様と闘ったり、死んだ恋人を生き返らせたりする物語。
昭和初期、キリスト教伝道学校で英語教育を受けた登別市の金成マツさん(1875〜1961)が、文字を持たないアイヌの言葉をローマ字表記で約 100 冊のノートに書きつづった。92の話(10話は行方不明)のうち、金田一氏が9話を訳し、萱野氏は79年から道教委の委託で翻訳作業を続けてきた。その成果は「ユーカラ集」として刊行され、大学や図書館に配布された。アイヌ語は明治政府以降の同化政策の中で失われ、最近は保存の重要性が見直されつつあるが、自由に使えるのは萱野氏ら数人に限られていた。
文化庁は「金成マツノート」の翻訳に民俗文化財調査費から28年間、年に数百万円を支出してきた。今年度予算は1500万円のうち、半額を翻訳に助成。同予算は各地の文化財の調査にも使われる。
これまでのペースでは、全訳するのに50年程度かかりかねない。文化庁は、「一つの事業がこれだけ続いてきたことは異例」であり、特定の地域だけ特別扱いはできないという。これをうけ、北海道は30年目を迎える07年度で終了する方針を関係団体に伝えた。
道教委は「全訳しないといけないとは思うが、一度、区切りを付け、何らかの別の展開を考えたい」としている。
樺太アイヌ語学研究者の村崎恭子・元横浜国立大学教授は「金成マツノートは、日本語でいえば大和朝廷の古事記にあたる物語で、大切な遺産。アイヌ民族の歴史認識が伝えられており、全訳されることで資料としての価値が高まる」と話している。
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この<費用対効果比>は,「金成マツノート翻訳」が「アイヌ利権」であったことを示す。
- 「北海道アイヌ中国訪問団」
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惠原琢躬「札幌──広州メモ」
『北海道アイヌ中国訪問団記』,1974, pp.7-17.
pp.7-8
まず "経過説明" が、行われた。
『日中国交回復前の1971一年7月29日、社会党の川村清一参議院議員や岡田 [春夫, 社会党衆議院議員] 氏の案内で、中日備忘録貿易弁事処主任代理の王作田氏、文匯報駐日記者の蒋道鼎氏らが、平取町二風谷を来訪し、アイヌの歴史や現状、少数民族問題で意見を交換。
11月21日、岡田氏が平取町二風谷を訪れ、マンロー記念館での懇談会の席上、王作田氏より二風谷に対して中国への招待の意向があったと報告をした。
1972年10月22日、北京日報記者王泰平氏が、岡田氏の案内で北海道新聞社の記者と共に、平取町二風谷の貝沢正氏宅を訪問し、意見を交換した。
1973年2月5日、貝沢氏と沢井氏が岡田氏の案内で、中日備忘録貿易弁事処を訪問、王作田氏と蒋道鼎氏に会って、10名位で訪中したい旨申し入れる。
10月、岡田氏が訪中の際、中日友好協会の廖承志会長、孫平化秘書長と会見。
アイヌ訪中について、更に申し入れたところ、陳楚駐日大使と相談のうえ、決定したいとの返答があった。
12月1日、陳楚大使、蕭向前参事官夫妻他6人が平取町を訪問、二風谷生活館で約20人と懇談した。
その席上、貝沢氏が「中国の少数民族の現状を知りたい、アイヌとの交流の場をもうけて欲しい。」と、要望した。
これに対して、陳楚大使は、
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中国には50族余、約3000万人の少数民族がいる。革命後、一切差別はなく、平和に暮している。アイヌの人達を中国へ招待したい。」
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との意向を明らかにした。
次いで、旭川での陳楚大使歓迎パーティの席上、門別氏らにも招待したいとの話があった。
1974年1月4日、中日友好協会はアイヌ訪中団15人以内を3週間招待する旨、駐日中国大使館へ打電があったと、王作田氏から岡田氏へ連絡。
この后、平取町二風谷で貝沢氏がとりまとめ役となり、人選に入った。‥‥‥』
‥‥‥
また "団の目的" では、
『七億人余りの人口を有する中国 (最近の中国の発表では八億人) は多民族国家で、94%の多数を占める漢族の中で最も少ない500人又は2500人の極めて少ない人口にはじまり、50余りの少数民族が差別もなく卑屈もなく、新しい国づくりに励んでいると聞く。
これらの人々と親しく話合い、交流を深め、意識を学ぴ、私達アイヌのおかれている現状をふまえ、新しい方向への一つの糸口を見出してきたい。』
p.9.
岡田春夫氏の話では、中国が少数民族を団体で招待したのはアイヌ訪中団が初めてであり、朝日新聞の中国担当記者によると、アイヌ訪中后、他の国の少数民族が次々に中国を訪問しているという。
岡田氏は、
「 |
蒋介石の国民政府時代には、中国ではアイヌを『哀奴』とか『愛奴』と表記していた。
しかし、解放后は『阿伊努』と表記している。
『阿』は尊称、『伊』は彼、三人称、『努』は努力で、『努力をしているあの人達』という意味である。
中国は国内のみならず、国外での民族差別にも反対すると表明している」
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と訪中国に説明した。
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