|
菅原幸助「観光アイヌ」
菅原幸助『現代のアイヌ』, 現文社, 1966. pp.78-88.
pp.82-84
白老町では若いアイヌ青年たちが中心になって、観光コタンをなくする運動をやってきたが、観光コタンはさびれるどとろか、逆に、北海道観光ブームと共に繁昌するばかりだ。
観光コタン反対運動を進めてきた青年たちにとって、頭の痛い問題である。
町のお祭りや記念行事があると「白老の町はアイヌで知られているから、アイヌのイヨマンテ (クマ祭り) をやって人を集めよう」ということになる。
青年たちはそのたびに「日本の神社のお祭りや町の記念行事にアイヌを引き合いにだすことはあるまい」と反対してきたが、アイヌのクマ祭りがシャモたちの手で行われてしまうのである。
いま繁昌している観光コタンにしても、青年たちはいろいろな方法で抵抗をこころみてきた。
駅や街頭に「観光アイヌコタンはこの先五百メートル」などという立看板が立つと、青年たちは夜中にこっそりと、この看板を海に投げ捨てた。この看板は捨てては新しく立ち、立てては捨てるというイタチごっこがくり返されている。
青年たちを指導してきた白老町漁業協同組合常務理事野村義一さんは、くやしそうに私にいった。
「 |
アイヌの人たちは観光コタンをきらってよりつかない。そのコタンはさびれてゆくが、すぐ新しい観光コタンができるのです。観光事業家がやってきて、貧しいアイヌを他町村から集めてきでは新しい観光コタンがつくられるのです」
|
先年、北海道庁が白老町の観光をふくめた町づくり診断をやったことがある。その報告には、
|
本州の観光客はアイヌの姿に接することで北海道の印象を深める。
それにはいまの観光コタンは近代的で、自然のアイヌの姿を表現していない。
現在の観光コタンを、町から一キロほど離れたポロト沼に移住させ、むかしのアイヌの生活様式をやらせるべきだ。
興味をますためにはショーであってもよい。
そうすることで収入がふえれば、アイヌの生活は向上し、観光白老町の発展になるではないか。
|
と結論している。
これにはコタンの青年たちもカンカンになって怒った。
「北海道の役人までが、観光業者のお先棒をかついで、アイヌをむかしの姿に引きもどそうとしているのか!」。
青年たちは観光コタンのポロト沼移転に反対運動をはじめた。
しかし、この観光診断の報告にもとづいてさっそく、ポロト沼観光開発会社という会社がつくられた。
そして着々と新しい見せ物アイヌのコタン建設が進んだ。
|
|
即ち,1963年にポロト沼公園造成工事着手,そして 1965年にアイヌコタンのポロト湖(沼) 移転が成る。
|