「適応」は,<従来型に見切りをつける>からである。
<従来型に見切りをつける>をひとに迫る状況は,ひとの能力格差を現す。
<アイヌを生きる>に見切りをつけ,これを捨てられる者は,「できる者」である。
どうしてよいかわからず,取り残される者は,「できない者」である。
「できる者」は,自分の子には<和人を生きる>をさせる。
その子は,親の「先見の明」と「できる DNA」,そして子ども特有の柔軟性・可塑性によって,<和人を生きる>を自分のものにする。
知里真志保『アイヌ民譚集』(岩波文庫), 岩波書店, 1981.
「後記」, pp.165-171.
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pp.168-170
かくて,今日においてもなお,案外に多くの人々が,アイヌとさえ聞けば,いまだに熊と交渉を有って,文献の示すがごとき原始的な生活を営んでいるものと想像し,アイヌ民族に関して何か書く所があれば,それが直ちに現在の生活であるかのごとく思惟してしまう.
例えば今でも男は楡の皮糸で織ったアツシなるものを纏い,女は口辺に入墨を施し,熊祭の行事を営み,鮭や熊の肉を主食物となし,暇さえあれば詩曲や聖伝を誦し合って,老も若きも例外なしにアイヌ語の中に生活しているものと思い決めてしまう.
しかしながら実際の状態はどうであったか.
なるほどいまだに旧套を脱しきれない土地もあるにはある.
保護法の趣旨の履違えから全く良心を萎縮させて,鉄道省あたりが駅頭の名所案内に麗々しく書き立てては吸引これ努めている視察者や遊覧客の意を迎うべく,故意に旧態を装ってもって金銭を得ようとする興業的な部落も二,三無いでは無い.
けれどもそれらの土地にあってさえ,新しいジェネレーションは古びた伝統の衣を脱ぎ捨てて,着々と新しい文化の摂取に努めつつあるのである.
これを私の郷里──北海道胆振国幌別郡幌別村──だけについていうならば, そこではもはや, 炉ぶちを叩いて夜もすがら謡い明かし聴明す生活は夢と化し,熊の頭を飾って踊狂う生活にいたっては夢のまた夢と化してしまった.
新しい社会における経済生活の圧迫や,滔々として流込む物質文明の眩惑は,彼らをして古きものを顧るに遑なからしめた.
生活のあらゆる部門にわたって,「コタンの生活」は完全に滅びたといってよい.
四十歳以下の男女はもちろんのこと,五十歳以上の男子といえども,詞曲・聖伝のごとき古文辞を伝え得る者はほとんど無い.
綾かに残っている数人の老媼たちですら,今では全く日本化してしまって,その或者は七十歳を過ぎて十呂盤を弾き,帳面を附け,或者はモダン婆の綽名で呼ばれるほどにモダン化し,或婆さんは英語すらも読み書くほどの物凄さである.
毎日欠かさず新聞を読んで婦人参政権を論ずる婆さんさえいるのである.
内地人の想像さえ許さぬ同化振りではないか.
以上は私の生れた幌別村の現状である.
私は生れたのは幌別村であったが, 育ったのは温泉で有名な登別であった.
そこではもはやアイヌの家が二,三軒しかなく,日常交際する所はほとんど和入のみであったから,私は父母がアイヌ語を使うのをほとんど聞いたことがなかった.
だから,祖母と共に旭川市の近文コタンで人となった亡姉幸恵は別として, 私たち兄弟は少年時代を終えるまでほとんど母語を知らずに通したといってよい.
私が意識的にアイヌ語を学び始めたのは,実は一高へ入ってからのことである.
本来は母語であるはずのアイヌ語も, 私に関する限り, 英語・仏語・独語などと全く同様に,遙か後になって習得された外国語に過ぎない.
学校の休みで帰省するごとに,幾らかの暇を割いては前述の婆さんたちを訪ねて廻り,一語一語の意味を,根問い葉問いしては丹念にノートへ書留めて, どうやら詩曲が分るようになったのはつい最近のことである.
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本多勝一「「北海道アイヌ」こと貝沢正氏の昭和史」
『先住民族アイヌの現在』, 朝日新聞社, 1993. pp.75-94.
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pp.78-80
コタンコロクル (村の首長) の家系だった [母方の祖父] コタンピラは、膨大なユーカラの伝承者でもあった。
またその妻 (正の祖母) かぬもれはウエベケレ (昔話) の伝承者として、金田一の弟子・久保寺逸彦の記録にあらわれる。
貝沢正が物心ついたころ、父方も母方も祖父母が元気だった。
曽祖母も一人いた。
祖父は二人とも立派なヒゲを長くのばし、祖母と曽祖母は三人とも口のまわりに入れずみをしていて、みんながアイヌ語で話し、アイヌ文化を継承していた。
そして初孫だった正は、四人の祖父母からかわいがられ、甘やかされた。
‥‥‥
[コタンピラ夫妻は] 幼い孫に、アイヌ伝承文学どころかアイヌ語さえ教えず、むしろ反対に、シサム (日本人) の「おとぎばなし」を日本語できかせた。
‥‥‥
幼少の正は、母の実家でコタンピラ老夫妻からきいた「日本のおとぎばなし」を、帰ってから父方の祖父母に日本語で聞かせる。
大喜びの二人にうながされるままに、一晩に同じお話をくりかえしては得意がっていた。
「あのころアイヌ語で育てられていたら‥‥‥」と、いま七六歳の貝沢正は、腹立たしさ・くやしさ・悲しさなどの入りまじった、言葉にもならぬ感慨に襲われるのである。
そのような「日本化」(非アイヌ化) 方針で育てられた父・与治郎は、自分はもちろん息子の正にも、日本的価値観を「よいもの」として脱アイヌにつとめさせた。
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本多勝一「アイヌ民族復権の戦い──野村義一氏の場合」(1989)
『先住民族アイヌの現在』, 朝日新聞社, 1993. pp.101-136.
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pp.106-109
野村義一の祖母の兄にあたる「野村エカシトク」は、アイヌ伝統社会での本当の意味での最後のコタンコロクル (首長)だったといわれている。
‥‥‥
コタンコロクル (首長) の資格としては、つぎの四つがそろっていることがアイヌ社会での伝統であった。
男っぷりがいいこと。
外交手腕があること。
弁論の才があること。
包容力に優れること。
北海道ウタリ協会理事長として野村義一が活躍する様子は、あたかも現代のコタンコロクルをおもわせるところがあるが、あるいはこれは野村エカシトクの後裔の一人であることも一因であろうか。
野村義一が幼少のころの家族は、母と祖母のほか四歳下の妹と計四人だった。
祖母の子供四人のうち母は第三子で、母には兄・姉・妹がいたのだが、祖母と一緒に住んで世話をしたのは母である。
「父親は私が物ごころついたときにはすでにいなかったんです。
そのころ漁業関係で本州の東北からこのあたりへずいぶん来ましたからね、青森県人・岩手県人・福島県人などが。
そういう一人とうちの母親は恋愛をして私を産んだんでしょうね。
秋には本州に帰って春になると来ていたそうですから」
そう淡々と語る野村には、だから父親に関する消息は全くわからない。
しかし祖母とは母親以上に密接に生活した少年時代だった。
母は漁場の炊事仕事などで出ていることが多かったからである。
小学校六年を卒業するまで祖母と一緒だったという。
だが、今にして思えば本当に残念なことをしたと野村は口惜しがる。
その祖母と母とが二人で話す言葉はアイヌ語だったのに、義一と話すときは日本語なのだ。
「だけど私らはそれが不思議だともなんとも思いませんでしたね。
あのころ祖母さんからアイヌ語を習っておけぱあばよかったなと思うんですよ。
萱野茂さん(62)〔も祖母さんから直接アイヌ語を覚えたからこそ今日の萱野さんがあるわけですから」
‥‥‥
こうした風景は野村義一をはじめとして、ウタリ協会副理事長・貝沢正 (76) など、この世代のアイヌに広く共通する体験であろう。
つまり今の 50 代から 70 代あたりのアイヌの場合、多くは次のような急激な変化を体験している。
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