Up 移植・絶命 作成: 2016-09-11
更新: 2016-10-17


    植物を土から抜いて,他の場所に植える。
    その植物は,これによって,死ぬ。
    土から抜くとき根を傷めてしまったというのが,理由ではない。
    土込みで植物のカラダだったというのが,理由である。

    植物の成長は,自分の生きる系の構築である。
    これまで構築してきた系を壊された植物は,また一から系を構築し始めるということはできない。こうして,死んでしまう。
    そこで,植物の移植は,植物が植わっていた周りの土を落とさないようにして,土ごと移植するわけである。


    島の火山が噴火を起こす。
    行政は,島からの住民退去を措置する。
    島から移住させられた者は,移住先で<腑抜け>になる。
    年寄りは,適応力が弱いので,ストレスでカラダを壊す。
    強制移住させることが,島にそのまま居させるのより,ほんとうによいのか,という話になる。
    実際,行政が強制移住を措置するのは,先ずは自分のためである。
    即ち,自分が後で責任追及されることのないようにするためである。

    機関の施設移転は,別モノ機関への転生になる。
    機関の伝統が,移転によって失われてしまうからである。
    建物と人は,別々ではない。
    一緒である。
    建物と人が合わさって,機関という<生きる系>である。

    大津波災害からの復興として,行政は住民の移住を措置する。
    これまでの居住地を「危険地域」と定め,「安全地域」に強制移住させる。
    移住は,人のこれまでの営みの終了になる。
    これまでの文化を終わらせる。
    同じものは,現れない。
    「復興」は,「失ったものを取り戻す」ではない。
    「別モノを始める」である。


    1875年,日本とロシアの間で,樺太・千島交換条約が締結される。
    そしてこれに基づき,樺太のアイヌの強制移住が措置される。
    彼らは,一旦宗谷に置かれ,さらに翌年石狩国対雁(ついしかり)に移動させられる。
    そしてここで,多くが死ぬ。

    アイヌイデオロギーは,これを「虐待」の話にする。
    しかし,悪意や,虐待のつもりは,ここには存在しない。

    伝染病の流行が大量死の直接の原因だが,この場合に関しては,罹患も適応障害のうちということになる。
    ひとは何でこんなにもあっさり死ぬものかといぶかしがるかも知れぬが,地面からただ引き抜いて植え替えた草木があっさり死ぬのと同型である。
    野生動物が檻に入れられてショック死するのと同型である。
    このとき,動物の移動でショック死させてしまった動物園飼育員に,悪意や,虐待のつもりはない。


    アイヌは,強制移住が措置されると,あっけなく滅ぶ。
    アイヌとは,人のことではなく,生態系のことである。
    強制移住は,人が裸状態で別の地に置かれることである。
    裸状態で移植された植物が絶命するように,アイヌは強制移住で<絶命>する。

    <絶命>の重要な意味は,「これまでの自分の生き方の絶命」である。
    アイヌのいちばんの大事は,神事である。
    強制移住先では,この大事が真っ先に捨てられる。
    理由は単純で,神事が<似合わない>からである。
    そして,神事の廃棄即ちアイヌの終焉である。

      砂沢クラ,『ク スクップ オルシペ 私の一代の話』, 北海道新聞社, 1983
    p.72
     私たち近文のアイヌが住みなれた土地と家を追われ、荒れ地の中に和人が建てたマサ小屋に移り住んだ年 (明治四十年) の秋のことです。
     祖父のモノクテエカシの妹、ニィトマフチがエカシの身を案じて、ハママスケ (浜益) から歩いてやってきました。 フチは「兄のことが気になって夜も眠れない。汽車に乗る金がないので歩いてきた」と泣きながら言うのです。
     何日かたって、ニィトマフチはトゥス (予言) をしながら、こう言いました。 「兄さんが住んでいた古い家にあったイナウサン (祭壇) には六十頭のクマの頭の骨が祭ってあった。それを和人たちが古川に捨て、土を盛り、道路にして踏んでいるので神が怒っている。イナウ (ご幣) を六十本作って神におわぴをしないと、ひどいことが起きる」
     ニィトマフチは祖父に、母も父に「イナウを作って神に祈って」と何度も何度も頼んだのですが、祖父も父も「神の怒りは和人にかかる」と言って取り合わず、一本のイナウも作りませんでした。 いままで、ずっと神を信じ、神をうやまってきた祖父や父なのに。 和人に土地を奪われ、組末なマサ小屋に住まわされることになって、もう神に祈る気持ちになどなれなかったのかもしれません。