松前藩,蝦夷直轄期の幕府,そして明治新政府は,蝦夷地統治上の必要から,それぞれ「アイヌの人口」を調査している。
例えば,つぎのような数字がある:
Bird, Isabella (1831-1904)
Unbeaten Tracks in Japan. 1880
金坂清則 訳注 『完訳 日本奥地紀行3 (北海道・アイヌの世界)』, 平凡社, 2012.
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p.27
[記述時期:1878年]
〈開拓使〉の権大書記官である安田定則氏は、ハリー・パークス卿の要請を受けて、次のような若干の事実を提示してくださった──。
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1873年[明治6年]に出た人口調査概報によると、その人口は
男 6118 人
女 6163 人
合計 12281人
となっている。
この年以後はどの年についても人口調査は行われていないが、アイヌの人口数は減少しつつあるとみられている」
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税に関しては、アイヌは金と物で納めている」
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「 |
文部省の教育法は〈北海道〉には適用されていないが、同じような制度が〈開拓使〉によって採用されてきている。
出自の区別をすることなくこの島の全住民にこの制度は適用されている。
帝国政府はアイヌと日本人[和人]を同じように教育することを目標にしている」
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「 |
アイヌが生きていけるようにするために種々の特別措置がとられてきている」
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そして「アイヌ終焉後のアイヌ系統者の人口」については,つぎの捉えが当たっている:
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喜多章明「旧土人保護事業概説」(1936)
喜多章明『アイヌ沿革誌 : 北海道旧土人保護法をめぐって』, pp.79-105.
pp.90,91
現在に於ける旧土人人口は昭和十年の調査に依れば別表に示す如く 3,713 戸、人口 16,324 人にして、是を明治五年以来の統計に徴するに明治五年の 15,275 人より一進一退の状態にて大正五年に 18,674 となり、その後亦多少の増減を示しつつ今日に及んでゐる。
然し之は表面の数字のみであって、事実は毎年 400 人乃至 500 人宛増加してゐる。
1年に 400 人宛増加したとしても、10 年には 4,000 人、明治五年以来 65 年の間には 26,000 人増加しなければならぬ勘定になるが、統計数字から見ると依然として 15,000 内外に停頓してゐるのは、如何なる理由か。
それは宛も満々と湛へられた盥の水の中に一滴の朱を注いだやうなものであって、アイヌ族は漸次同化に依り、混血に依って九千万の大和民族中に吸収され、融合されつつある。
揮然たる一体になりつつあるが為である。
土人と言ひ、和人と言ふもそれは単に事実上の呼称であって、現行の法制上では何等の区別がある訳でなく、等しく平民である。
従って従来住馴れた古潭から離れて他府県、他市町村の一般和人部落に入込んだものは、皆和人となって調査される。
国後島には幕末迄 3,000 人もゐたアイヌは概ね函館に移住したのであるが、今日函館には一人もアイヌはゐないことになっている。
それは血族的にアイヌが亡んだのではない。
同化に依って、アイヌ人たる社会的存在を失った迄である。
是は単なる一例にしてその他府県に、或は一般市町村内に、アイヌ人と呼ばれないアイヌ人はザラにある。
15,000 と言ふ人口は、保護法に依って和人の不入地とされてゐる古潭を基礎として調査したものに過ぎない。
近来はアイヌ人も文化が進み、知識が向上するに従って時勢に目覚めたものは、いろいろな職業を求めて他府県、他市町村に転出する。
転出したものは和人となり、転出する技倆もなく、古潭に停ってコツコツ旧慣を墨守するものはアイヌ人として調査され、アイヌ人として遇せられ、アイヌ人として差別されてゐると言ふのが、現在の実相である。
尤も古潭にあるもの総べてが生活技倆に乏しいとは断言出来ないが概してその傾向がある。
アイヌ人と和人との雑婚は歳と共に増加してゐる。
現在アイヌ人にしても和人の家に入れるものは 800 人、和人にしてアイヌ人の家に入れるものは 600 人、かくて両種族は融然として相融合しつつある。
この結果はいやが上にも純粋土人の数を減ぜしめている。
本道土人の人口が増加しない理由はざあっと以上のやうな理由に胚胎するのである。
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