シャモに対する怨念を表現する者は,シャモに対する戦いを宣言しなければならなくなる。
しかし,「戦い」の宣言は,わけのわからぬ物言いにしかならない:
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結城庄司「ウタリに寄せる ──自然主義者、アイヌの道」
『コタンの痕跡』, 旭川人権擁護委員連合会, 1971. pp.437-447.
pp.438,439
「どうして語れないのか」
「それがわからない」。
わかるのは、今こそたたかわなくてはならないことだ。
だが、がむしゃらに考えたって,一人でなやんだってしょうがないことだ。
じゃ,どうすればよい。
それは皆なで考え、皆なでたたかうことが一番よいことだ。
"たたかう" 目的はなんだ。
目的は何千年も昔からアイヌ(人間) は生き残って来たのだ。
生きる。
それは戦いだ。
それが目的だ。
アイヌは大自然と戦い、山、海、河を神々とし世界を大地として生きて来たのだ。
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そして,無慚な思考停止を曝していくことになる:
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p.444
自分たちの真の主張をつらぬき通すためにも、本当の幸福を得るためにも民族組織活動の重要さを知らなければならない。
アイヌには、民族解放運動に必要な材料は幾人もの学者によって数え切れないほどたくわえられているし、その歴史的証拠によっても、本当の偽善者は何んであるかを知ることができる。
それによってアイヌ系住民自身が進んで知識を得、自覚に燃えて経済的闘争あるいは精神的闘争に備え、着実に戦わなければいけないのである。
そこで、われわれはいかなる社会問題にも目を光らせ、偽善者を許す事なく、他の組織と提携し、多くの世界少数民族問題にも進んで参加し、多くの歴史的過去の経験を教訓としてこれを活かし、世界の平和と人権高揚の推進力となったときにこそ、アイヌ歴史の新らしい道が始まるのである。
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怨念から戦いの宣言に進むのは,勢いである。
一方,戦いの実践は,具体である。
具体は,《だれが・だれに・いつ・どこで・なにを・どうする》である。
怨念から戦いの宣言に進んだ者は,《だれが・だれに・いつ・どこで・なにを・どうする》にまったく答えられない自分を,見出すことになる。
そして,たちまち勢いを失っていくというわけである。
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