Up | はじめに | 作成: 2017-03-25 更新: 2017-03-26 |
本テクストは,"アイヌ民族" がデマゴギーであることを述べようとするものである。 "アイヌ民族" をデマゴギーとして述べることは,「"アイヌ民族" 否定」になる。 そして,"アイヌ民族" 否定は,"アイヌ民族" デマゴーグの存在否定の趣きになる。 "アイヌ民族" デマゴーグは,自分を否定する論に対しては,これをやっつけることを考える。 このとき,"アイヌ民族" デマゴーグは,「"アイヌ民族" 否定」を「アイヌヘイト」とイコールにするという手を用いる。 理由は,二つである。 第一に,彼らは,「悪者論──善悪二元論」を思考回路とし,自分を善にする者である。 そこで,彼らを否定することになるものは,彼らにとって「悪意」であり,したがって「ヘイト」である。 第二に,彼らは,「善の実現」をイデオロギーとする者である。 ひとが「害虫」退治を考えるとき,「生態系破壊」を考慮しなくてよいとなれば,どんな手を使ってでもやっつけようとする。 「善の実現」のイデオロギーは,「悪」に対してはこの構えになる。 悪をやっつけるのに,やり方がきれいも汚いもない。 「善の実現」イデオロギーの者は,「目的の達成になる戦術・戦略は肯定される」の実践論をもつ。 この構えでは,自分たちの存在否定をしてくるものに「ヘイト」のレッテルを貼って非難することは,巧い戦術・戦略であるから,よいことである。 ──実際,ひとは,「ヘイト」訴えのパフォーマンスに騙される。 こうして,「"アイヌ民族" 否定」を「アイヌヘイト」として訴えることが,"アイヌ民族" デマゴーグの実践行動になる。 こういうわけで,「"アイヌ民族" 否定」のテクスト作成は,「"アイヌ民族" 否定」を「アイヌヘイト」に転ずる者の存在を考慮しなければならない。 即ち,「"アイヌ民族" 否定」は,彼らを却けることとセットに考えねばならない。 そこで,「"アイヌ民族" 否定」は,自ずと「作法」が立つことになる。 本テクストのスタンスは,「学術」である。 本テクストは,「"アイヌ民族" 否定」を学術的に行おうとするものである。 実際,この「学術的に行う」が,"アイヌ民族" 否定の作法になるものである。 なぜか。 相手と同じに土俵に上がるのは,言い合いにしかならない。 否定は,超越論でやらねばならない。 超越論にもいろいろなタイプがある。 ここで択ばねばならない超越論は,「科学」である。 なぜか。 「真偽」は,理論 (論理体系) に乗せなければ,空論になるからである。 そして科学が,理論構築の営みだからである。 ところで,理論構築は,分野によって,難易がある。 自然科学に対し人文科学が「科学」らしく見えないのは,理論構築が困難であり,事実できていないからである。 "アイヌ民族" デマゴーグは,《アイヌ学が弱いのをいいことにしている》という面がある。 実際,アイヌ学は,既に終焉している。 即ち,科学を捨てるという形で,終焉した。(1989, 日本民族学会「見解」) 周知となっていないが,現前のアイヌ学は科学ではない。 ──科学を捨てた "アイヌ民族" デマゴーグは,自分の立場を,"アイヌ民族" についての学会の「見解」で正当化している。 それは,「アイヌの人びとの場合も,主体的な帰属意識がある限りにおいて, 独自の民族として認識されなければならない」というものである。 そして,これが「アイヌヘイト」を呼び込むことになる。 「アイヌ法」を以て「アイヌ特権」を定める元になっている「アイヌ民族」が,「主観的な帰属意識」で済んでしまうということになるからである。 こういうわけで,「"アイヌ民族" 否定」は,自ずと「"アイヌ学" 否定」を含むことになる。 ここで,大事なことを述べる。 "アイヌ民族" 否定は,"アイヌ民族" デマゴーグを無くそうとするものではない。 現前には,理がある。 "アイヌ民族" デマゴーグの現前には,理がある。 系は,"アイヌ民族" デマゴーグが一定数存在することを,その理のうちに含んでいる。 実際,ひとは商品経済に棲み,そして商品経済は「利権」を歯車にして回転している。 「アイヌ利権」は,系の理の実現である。 「アイヌ利権」は,無くす・無くさないというものではない。 現前は,無くす・無くさないというものではないのである。 ──本テクストは,「作法」の最後の項目として,これを述べることになる。 |