Up | 「現成」のスタンス : 要旨 | 作成: 2017-04-05 更新: 2017-04-06 |
実際,現前は,肯定するとか否定するとかいうものではない。 現前は,現成である。 存在の相互作用の均衡がその都度実現されている相である。 人は,このダイナミクスの系の一部要素である。 人のする肯定・否定は,新たな均衡相の契機である。 そして,その均衡相は,肯定・否定いずれかの実現というふうにはならない。 まったく別のものを現すことになる。 「アイヌ利権」は,このようなものである。 最初からこれをつくろうとして成ったのではない。 実際,つくろうとしてつくれるものではない。 人の肯定・否定がねじれて,こんな形のものが実現する。 ──これを「止揚」という。 発達史観の間違いは,「止揚」を「よりよいものの実現」のように考えたことである。 「止揚」の意味は,単に「均衡の実現」である。 均衡によいもわるいもない。 個の意志・行動は,系の均衡実現のダイナミクスの中でねじれる。 ムクドリの集団飛行は,ムクドリ個々の運動が契機であるが,個体はその都度,もとの意図とは違った方向に飛んでいる。 "アイヌ民族" を唱える者と,"アイヌ民族" 否定をする者の対立は,勝負ではない。 もともと勝負になるものではない。 この対立は,止揚される。 対立の止揚は,一つに,《時代の変化の中の「アイヌ観光」の移り変わり》として現れる。 新左翼ムーブメントの中から "アイヌ民族" 派が現れ,民族派"アイヌ" によることば狩り・表現狩り・言論狩りの時節が長い間続いた
自分たちがやる分にはよいが,和人がやるのは人種差別だ,というわけである。 (そしてこのキャンペーンに,御用新聞が乗っかる。)
こうして「アイヌはタブー」の時代になった。 これは,「本物・偽物」論である。 現在,「アイヌ」パフォーマンスに対し,「本物・偽物」を言う者はいない。 本物など無いこと──「偽物」を言い出せば,みな偽物になってしまうこと──が,知られているからである。 「アイヌ」パフォーマンスに対し,「アイヌ差別」「アイヌに対する偏見」を言う者はいない。 民族派"アイヌ" (=観光"アイヌ") がかつて同化派"アイヌ" から「アイヌに対する偏見を作り出している大元」のように非難されていたことが,知られているからである。 そこで,「アイヌ」パフォーマンスは,「文化継承」のことばで合理化される。 「アイヌ観光」も,「アイヌ」の意味を「アイヌ文化継承物」に変えていく。 "アイヌ民族" を唱える者と "アイヌ民族" 否定をする者の対立の止揚は,もう一つ,《時代の変化の中の「アイヌ保護」の移り変わり》として現れる。 これまで「保護」は,「困窮アイヌの生活保護」であった。 しかし,"アイヌ" を生活保護政策の形で特別扱いすることは,もう無理となった。 そこで,「アイヌ保護」もまた,「文化継承」で合理化されるものになる。 「アイヌ文化継承者支援」というわけである。 こうして,経営困難な大学が「アイヌ文化」のコースをつくり "アイヌ" 子弟を取り込もうとする,のような展開となっていくわけである。 物事は,このように進捗する。 そして進捗しているそれは,「アイヌ利権」である。 「アイヌ利権」が,止揚である。 "アイヌ民族" 否定をする者は,だいたいが,"アイヌ民族" 否定を「アイヌ利権」否定と兼ねている。 しかし,「アイヌ利権」の否定は,新たな「アイヌ利権」に止揚されるというものである。 「アイヌ利権」否定の先は,<「アイヌ利権」が無くなる>ではない。 「アイヌ利権は永久不滅!」である。 彼らは,このことを理解しなければならない。 |