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加々美光行『知られざる祈り──中国の民族問題』, 新評論, 1992.
pp.159-164
漢民族の大量移民入植は,1958年10月、朱徳が中央国家機関青年社会主義建設積極分子大会において辺境支援の呼びかけを行なったのをきっかけとして本格化した。 ‥‥‥
新疆生建兵団が大躍進期に開墾した荒地は、1957年時点で320万畝であったのが61年時点で800万畝に達したというから、およそ500万畝弱ということになる。
このような入植は当然遊牧民のいっそうの定住化を伴わなくては実現しない。 ‥‥‥
牧業区における人民公社化は、遊牧民をほぼ全面的に定住化させるとともに、放牧に必要な牧草地およびオアシス (水飲み場) の特定化と経営管理化、さらに散在する自然的牧草地ないしオアシスの一部への漢民族の入植と開墾およびその農地化、といった全過程を含むものであったと考えてよい。
この時期、新疆でトルコ系住民による反乱があい次いだのは、ある意味で当然であった。
1959年3月20日にやはり新疆南西部で起きたもので、約一万人の少数派民族住民が四人のイスラム首長に指揮されて監獄を襲撃、600人の囚人を解放し、50人の看守や官吏を殺害したという。
この反乱はウルムチから正規軍が派遣されて鎮圧されたという。 ‥‥‥
三面紅旗政策は‥‥‥漢民族の大量移民入植が象徴的に示しているように、文化的、イデオロギー的、政治権力的にはむしろ極めて集権的な体制を創り上げるものであった。 ‥‥‥
それはまた生活・生産の様式の画一化、より広い意味では世界観の画一化を目指すものであった。 ‥‥‥
この世界観にあっては民族はもはや歴史を創造しうる主体とはみなされない。 ‥‥‥
1957年9月の八期三中全会における鄧小平の「整風運動に関する報告」は、
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民族主義はブルジョア思想の重要な側面であり、プロレタリアートの世界観と根本的にあい容れないものであって、反マルクス=レーニン主義、反共産主義の思想である」
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と述べている。
これは1913年にスターリンがその著『マルクス主義と民族問題』のなかで、最初に明らかにしたテーゼを踏襲したものであった。
つまりブルジョアジーの台頭による国民経済・国民市場・国民文化の形成の過程は、同時に人々の「民族」への結集過程であると考える見方がそれである。
そこでは民族をブルジョアジー台頭の歴史時期にのみ誕生しうる概念とみなすわけである。 ‥‥‥
こうした階級史観にあっては、地域による相違、民族による相違は、ことごとく人類の進歩における歴史段階の相違 (より後れているか、より進んでいるかの相違) に帰されてしまう。‥‥‥
こうして理想的には、もっとも「先進的」で世界性的な普遍性を実現しうるプロレタリアートを各地に派遣することによって、この格差は是正しうるものとみなされる。‥‥‥
現実的な意味においてはより「先進的」な漢民族が、より「後進的」な少数民族のもとへ派遣されたのである。
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