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加々美光行『知られざる祈り──中国の民族問題』, 新評論, 1992.
pp.151-154
初級合作社化がほぼ軌道に乗った段階の1955年10月、解放後中国で最初の民族自治区 (省級の一級行政区) として新疆ウイグル自治区が成立した。
漢民族の新疆地域への大量移民と、カザフを中心とした牧業区遊牧民に対する改造は、この新疆ウイグル自治区の成立を境として急速に本格化した。
新疆地域における漢民族人口は、1949年の解放当初にはおよそ20万人と推計されていた。 ‥‥‥
漢民族の大量移民の尖兵となったのは1954年8月に正式発足した新疆生産建設兵団 ( 以下、生建兵団と略) である。
発足直後の1954年秋の時点の兵団内人口は20万人以上、その90%以上が漢民族とされた。 ‥‥‥
生建兵団が先駆けとなって、1956年から漢民族移民が本格化する‥‥‥1957年五月の時点で‥‥‥漢民族総人口は68万人に達している。 ‥‥‥
さらに文化大革命 (以下、文革と略) が開始された1966年までで兵団人口は50万から60万人といわれたが、当時漢民族総人口は軽く200万人を突破していたと見られる。 ‥‥‥
ところで当初の移民は一時的な入植とされ、その入植期限は3〜4年間であったが、1960年代初めには永住が義務づけられるようになった。
これら大量の漢民族入植者は、天山北路の北側に位置するジュンガル平原やアルタイ地区、および天山南路の南側のタリム盆地に入って開墾に従事した。
このうちとりわけ天山北路の北側は元来カザフを中心とした遊牧民の遊牧地であったから、当然漢民族入植者とカザフ等遊牧民との摩擦の回避、調和が問題とならざるをえなかった。
こうして1956年から遊牧民に対し「定住による遊牧」への誘導、定住化政策がとられるようになっていった。
これと同時に牧業区にも徐々に集団化政策が導入されるようになっていく。
居住空間の不動化を前提としなければ集団化はありえず、また国家中央権力による政治支配も及びえないからである。
いずれにせよ1956年5月までに早くも新疆地域の40%の牧民が互助組に組織されたという。
互助組はさらに逐次、初級合作社へと再組織化されていった。 ‥‥‥
その方針は自主白願を原則として基本的にそれまでの穏健な政策 (不闘不分、不劃階級、牧工牧主互利) を維持した形で行なうとしたため、当初は事態は比較的穏便に推移した。
しかしながら1956年秋に入って初級合作社から高級合作社へと集団化のエスカレーションが起きるにつれて、少数派民族と漢民族の摩擦が増大していき、またそれと並行して政策のあり方も穏健路線から強硬路線へと転換していったのである。 ‥‥‥
こうして牧業区では1957年春の段階までに全戸の40%以上に当たる牧民が、1200以上の牧業合作社、農牧業混合合作社に組織された。
さらに58年1月には58の国営牧場が誕生し、58年6月時点の合作比率はで72%,同10月は76.1%に達し、この時点で「牧業の社会主義改造が基本的に実現した」といわれたのである。 ‥‥‥
こうした過程はこのあとに続く人民公社化の過程によっていっそう徹底したものとなっていくが、それは一言でいうなら、ウイグル、カザフ、キルギス、タタールなど新疆少数派民族の生活と生産の諸様式を全面的ではないにせよ、少なくとも部分的に漢民族化する過程であったといえるだろう。
それは1958年を境として漢民族の入植が急増し、それと並行的に遊牧民の定住化政策が徹底度を増していくことにはっきりと読みとることができる。
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