Up ルサンチマン 作成: 2017-02-28
更新: 2017-02-28


  戸塚美波子「詩 血となみだの大地」
『コタンの痕跡』, 1971, pp.95-107.
自然は
人間自らの手によって
破壊されてきた
われらアイヌ民族は
何によって破壊されたのだ
この広大なる北海道の大地に
君臨していたアイヌ
自由に生きていたアイヌ
魚を取り 熊 鹿を追い
山菜を採り
海辺に 川辺に
山に 彼らは生きていた

人と人とが 殺し合うこともなく
大自然に添って 自然のままに
生きていたアイヌ
この大地は まさしく
彼ら アイヌの物であった
侵略されるまでは───

ある日 突然
見知らぬ人間が
彼らの 目の前に現われた
人を疑わねアイヌは
彼ら和人を もてなし
道先案内人となった

しかし──
和人は 部落の若い女たちを
かたっばしから連れ去ったうえ
凌辱したのだ──

そして 男たちを
漁場へと連れて行き
休むひまなく
働かせた

若い女たちは
恋人とも 引さ離され
和人の子を身寵ると
腹を蹴られ流産させられた
そして 多くの女たちは
血にまみれて 息絶えた

男たちは
妻 子 恋人とも
遠く離れ
重労働で疲れ果てた体を
病いに冒され
故郷に 送り返された
その道すがら
妻を 子を 恋人の名を
呼びつつ
死出の旅へと発った
 (侵略者和人は 利口な 民族であった)

しかし
アイヌも まるきしパカではなかった
そうした 和人の仕打ちに
がまんできなかった勇者は
奮然として 打ち向かった
その結果 壮絶な戦いの末に
和人の域を 攻め落したのだ

追い込まれた和人は
最後の武器を使った
和睦の酒宴と称し
彼らアイヌに たらふく酒を
飲ませ 自由を失った 彼らの
五体を 刀で くし刺きにしたのだ
そのあげく
耳をそいで 見せしめとした
 (似ているではないか!
  どこかの大国がアジアで行なっている戦略行為に
  ──あまりにも よく似ている)

真っ赤な
どろりとした血
かって 侵略されるまで
いや この大地が
アイヌの天地で あったとき
けっして流れたことのなかった
その血は
それ以後 絶えまなく
地中へと 吸い取られていった

いくたび踏みつけられた
いくたび立ち上がった
いくたび 血を流された
いくたび 無念の涙をのんだ
いくたび 路上でのたれ死んだ
いくたび 「アイヌ!」 と罵倒された──

アイヌが 和人から得た物
それは
酒 梅毒 結核 その他の伝染病
劣等感 そして "死" であった

時は流れ
緑なした原野は
畑と化し
大半のアイヌは
住むべき土地も家も 失った
和人の指導者は 言明した
われらが和人の開拓者には
土地 十五町
アイヌには 五町 あげよう
なんとお慈悲深い 和人ではないか

しかしアイヌは
その土地すら 酒にだまし取られたのだ
文字を持たない
文字を知らない アイヌの
悲劇だった──

そのようなアイヌの中には
たちまち 路頭に迷う者も出た
乞食のように 道端にうずくまる彼らに
石を投げつけ パカにする和人の子等
膝を抱え 顔も上げぬ
彼らのうつろな 瞳から
涙がとめどもなく 流れ出た──

和人の学者たちは
この原始人? アイヌを
研究せんがために
われ先にと 部落へ飛んだ
その手には 酒をたずさえて
狼狽する古老たちに
酒を飲ませ
ユーカラや伝承を 聞き出し
ペンを取った
アイヌに対して
人間的な感情も出さず
一個の研究材料として
冷静に見つめ
研究は 功をなした。

アイヌを裸にして 写真をとり
血を採った
ある学者は 部落の者が
制止するのを振り切って
大量の骨を 墓から 掘り起こし
持ち去ったという

今のうちに 研究しなくては‥‥‥‥
今のうちに 聞き出さなくては‥‥‥‥
珍しいか?
それほどに 珍しかったのか
頭のいい和人──
頭のいい学者先生──

アイヌの子供たちは
学校へ行きたがらなかった
われらアイヌの子にとって
学校は 地獄にも等しかった
登校 下校の道すがら
和人の子等に
「アイヌ! なんで学校へ来る!」 と
のしられ 蹴とばされ
髪の毛を 引っ張られた

土人 原始人 毛人
エゾ 外人 いぬ
われら アイヌ民族に与えられた
数々の名称

このロケットの飛ぶ時代に
ある研究者は こう言った
「純粋な アイヌの生きているうちに
アイヌの血が 肉片が欲しい──」と
くれてやろう
それほどに欲しくば
血でも 肉でも 骨でも──
ハイ グラムいくらです

何という 素晴らしい
研究者であろうか
血を 肉を 骨を
永久に 保存して下さると言う
誇りを うばわれ
血も 肉も 骨も
土地も 家も
自由な 天地すら うばわれた アイヌ

いまだ 北海道の
観光用ポスターには
ワラぶき小屋 丸木舟
そして アッシを着たアイヌが
威厳を 誇ってる
それを見る 観光客は
われらアイヌに
「日本語 わかりますか?
あなた アイヌですか? アイヌ語
話せますか? 何を食べてるのですか?」
と 真顔で問う
なんたる 認識不足 なんたる侮辱

今の 現代のアイヌは ちがうぞ
自らの力で
コシプレックスに 打ち勝ち
堂々と 社会的地位を 築いている
文化生活を 電化生活を営み
若者は皆 近代的な生き方を
楽しんでいる

過去は 過去
まさしく そうであろう
しかし
今一度 振り返ってみよう
アイヌの われら祖先の
苦難の歴史を──
和人に対する
恨み言では けっしてない
その恨みを われらのエネルギー源にし
それら 屈辱の歴史を繰り返すことなく
アイヌとじて
日本人として 人間として

矛盾は矛盾として 告発し
生きよう
千古の昔より
われらを 見守ってきた
この大地のある限り
私の父母は アイヌ
アイヌは アイヌなのである
 (つまり人間である)


    註. 和人は 部落の若い女たちを ‥‥‥ 死出の旅へと発った」は,つぎに対応:
      松浦武四郎『近世蝦夷人物誌』(1857〜1860)
      高倉新一郎編『日本庶民生活史料集成 第4巻』,1969. pp.731-813.


    註. ある学者は 部落の者が 制止するのを振り切って 大量の骨を 墓から 掘り起こし 持ち去ったという」は,つぎに対応:
      菅原幸助「アイヌ研究」『現代のアイヌ』, 現文社, 1966. pp.99-108.
    pp.90,100
     シビチャリ川 (静内川) の上流にあるコタンでも、近年、学者とコタンの青年たちが、アイヌ研究をめぐって争ったことがある。青年たちの話によると、そのいきさつは、
     コタンで夏草の刈り取りがはじまったころ、大学教授と学生たち約二十人がコタンにやってきた。人類学上からアイヌの骨を調査するのだという。学生たちは教授の指示を受けながら、あちとちの丘や谷聞を掘り返した。そのうち、そこらに人骨が発見されないためか、コタンの墓地や畑を掘りはじめた。たまりかねたコタンの若者たちが怒って言った。
    「あなたたちは誰に断わって、との墓地を掘ったのですか」
     でっぷりと肥った教授が、金ぷちの眼鏡をはずしながら、平然として答えた。
    「ワシたちは学術研究のためにやっているのだ。キミたちも協力して下さい。この調査は町役場に断わってある。役場でも人夫をだしてくれるはずだ」
     翌日からアイヌ人骨採取作業は、さらに大掛かりになった。いくら学術研究でも、墓地を掘り返すのはひどいと、カンカンに怒った若者たちは、草刈りガマをふりあげて、学生発掘班に襲いかかった。しかし、人骨発掘作業は中止されなかった。その翌日には、町役場の職員やお巡りさんが立ち会って作業が進められた。
     フチ(父)の骨、バッコ(おばあさん)の頭骨、メノコ(娘)の骨がザクザクと掘りだされた。
    その骨はりンゴ箱に詰め込まれて、大学の研究室に持ち去られたそうだ。
    「大学の研究室やアイヌ研究学者の部屋にゴロゴロと並んでいるアイヌの人骨は、みんなそうして掘って持ち去ったものです」
     コタンの青年たちは、暗い面持ちで当時の模様を説明し、非人道的な学者の行為を非難していた。


    註. ある研究者は こう言った「純粋な アイヌの生きているうちに アイヌの血が 肉片が欲しい──」と くれてやろう それほどに欲しくば 血でも 肉でも 骨でも── ハイ グラムいくらです」は,つぎに対応:
      菅原幸助「アイヌ研究」『現代のアイヌ』, 現文社, 1966. pp.99-108.
    pp.100,101.
     やはり近年の話。日高平取町のあるコタンに、ある大学から学術に使うのだが、アイヌ人の血液を採血させてほしい。研究費がないので無料でお願いしたい、という申し入れがあった。
    採血量はコタンのひとたちが約二十人も応じなければまかなえない大量のものだった。
    コタンで相談した結果「断わる」ことにした。ところが、とんどは北海道庁から町役場に公文書で大学の採血に応ずるよう指示してきた。
     コタンの老人たちは「お役人がいうのなら、今後お世話になることもあるのだし」と、応ずる態度をみせたが、青年たちは強く反対した。「アイヌを亡びゆく民族などと、センチな表現で扱い、学者はこれまでも平気でアイヌの骨を集めて歩いた。こんどは生きているアイヌの血液までも採るとはひどい話だ。オレたちはモルモットではない」と、採血反対を続けた。
    この "採血騒動" はしばらくゴタゴタしていたが、結局このコタンではまとまった血液を採取できず、各地のコタンを回って、貧しいアイヌのひとたちの売血を集めることでおわった。


    註. 観光客は われらアイヌに 「日本語 わかりますか? あなた アイヌですか? アイヌ語 話せますか? 何を食べてるのですか?」 と 真顔で問う なんたる 認識不足 なんたる侮辱」は,つぎに対応:
      貝澤藤蔵 『アイヌの叫ぴ』(1931)
     小川・山田編『アイヌ民族 近代の記録』収載. pp.373-389.
    pp.374, 375
     内地に居られる人々は、未だ、アイヌとさえ言へば、木の皮で織ったアツシ(衣類) を着て毎日熊狩をなし、日本語を解せず熊の肉や魚のみを食べ、酒ばかり呑んで居る種族の様に思ひ込んで居る人が多い様でありますが、之は余りにも惨なアイヌ観であります。
     折襟にロイド眼鏡を掛けた鬚武者の私が、毎日駅に参観者の出迎へに出ると、始めて北海道に来た人々は、近代的服装をしたアイヌ青年を其れと知る由もなく、私に色々な質問をされます。
     内地でも片田舎の小学校の先生かも知れません其人に、「アイヌ人に日本語が分りますか?何を食べて居りますか?」と質された時、私は呆れて其人の顔を見るより、此人が学校の先生かと思ふと泣きたい様な気分になりました。
     「着物は?食物は?言語は?」とは毎日多くの参観者から決って聞かれる事柄です。
    けれど此様に思はれる原因が何処にあるかとゆふ事を考へた時、私は其人々の不明のみを責め得ない事情のある事を察知する事が出来ます。
    常に高貴の人々が旅行される時大抵新聞社の写真班が随行されますが、斯うした方々が北海道御巡遊の際、支庁や村当局者が奉送迎せしむる者は、我々の如き若きアイヌ青年男女では無く、殊更アツシ(木の皮で織った衣類) を着せ頭にサパウンベ(冠) を戴かしたヱカシ(爺)と、口辺や手首に入墨を施し首に飾玉を下げたフツチ(老嫗) だけです。
    此の老人等がカメラに納められ、後日其の時代離れのした写真と記事が新聞に掲載される時、内地に居てアイヌ人を見た事のない人々は誰しもが之がアイヌ人の全部の姿であると思ひ込むのも無理ない事だらうと思ひます。
    否々其ればかりではなく、時偶(ときたま)内地に於て内地人がアイヌ人を見受ける時は、山師的な和人が一儲けせむものと皆を欺し、アイヌの熊祭と称して見世物に引連れて居る時であります。
    之じゃ何時迄経っても内地に居られる人々は熊とアイヌ人とを結び付けて考へるだけであって、真に時代に目覚めたアイヌ人の姿を見、其の叫ぴを聞き得ない訳であります。
    私は今古代のアイヌ生活より説き起して、過渡時代より現代への推移、現在の生活状態を詳しく申上げたいと存じます。