Up | はじめに | 作成: 2019-02-10 更新: 2019-02-10 |
アイヌ学は,「アイヌとは何か」の探求であり,それのゴールは,知り得た「アイヌとは何か」をひとに伝えることである。 そして,ひとに伝えるその形は,『アイヌ学入門』である。 なぜなら,ひとは『入門』しか読まないからである。
例えば,その分野を生業にしている者,即ち「学者」。 学者には「探求」だけで終わる者もいるが,それは──彼らを弁護して言えば──だれかがそのうち書くであろう『入門』へ,継いでいることになる。 『入門』を書くとは,容易な内容を書くということではない。 エッセンスを書くということである。 エッセンスは,武術でいえば「 形は,修行のゴールである。 学術の修行のゴールもこれである。 ゴールを,『入門』に書く。 これは,背理である。 『入門』を書くとは,この背理を行うことである。 実際,『入門』は,その道についての「達観」が書かせるものである。 「達観」は,形式 (「 翻って,形式感覚が,「達観者の資質」いうものである。 この種の形式感覚は,学術に精進していれば自ずと身につくというものではない。 経験の内容と質が問題になる。 実際,身分的に「学者」であっても,「形式」を知らないままでキャリアを終えてしまう者の方が,多数派である。 アイヌ学の類を専攻していることは,『アイヌ学入門』が書ける十分条件ではない。 『アイヌ学入門』を書かせる「達観」──これの十分条件となる「経験の内容と質」は,多様な分野を横断することになるものである。 「達観」は,即ち方法論である。 『入門』を書く者は,方法論において己を試される。──内容の方は,方法論から自ずと導かれてくるものである。 そして「経験の内容と質」が,その方法論の |