松浦武四郎は,彼の第6回蝦夷地調査のなかで,人別改めもやっている。
その報告書である『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌』から,
サル場所近郷のアイヌで,運上屋へ稼ぎに出ている者の数
を数えると,つぎのようになる:
| 門別川筋 | : | 93人中 | 30人 | (「茂無辺都誌」) |
| 沙流川筋, 河口〜額平川分岐点 | : | 693人中 | 245人 | (「沙留誌 壱・弐」) |
| 額平川筋 | : | 132人中 | 44人 | (「沙留誌 参」) |
| 沙流川筋, 額平川分岐点から上流 | : | 132人中 | 43人 | (「沙留誌 肆」) |
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| 計 | : | 1050人中 | 362人 |
そしてその内容は,武四郎の言い方を用いれば
となる。
また武四郎は,この断定を補強する趣きで,働き盛りの年齢ながら雇いに出ていない者について,その理由を特に付したりしている (「馬鹿」「気抜」「跛」)。
"アイヌ"イデオロギーは,「アイヌ被虐史」がドグマである。
そこで,「和人がやって来る前の北海道」を「楽園」に仕立てねばならない。
つぎのようなぐあいに:
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知里幸恵 (1923)
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その昔この広い北海道は,私たちの先祖の自由の天地でありました.
天真爛漫な稚児の様に,美しい大自然に抱擁されてのんびりと楽しく生活していた彼等は,真に自然の寵児,なんという幸福な人だちであったでしょう.
冬の陸には林野をおおう深雪を蹴って,天地を凍らす寒気を物ともせず山又山をふみ越えて熊を狩り,夏の海には涼風泳ぐみどりの波,白い鴎の歌を友に木の葉の様な小舟を浮べてひねもす魚を漁り,花咲く春は軟らかな陽の光を浴びて,永久に囀ずる小鳥と共に歌い暮して蕗とり蓬摘み,紅葉の秋は野分に穂揃うすすきをわけて,宵まで鮭とる篝も消え,谷間に友呼ぶ鹿の音を外に,円かな月に夢を結ぶ.嗚呼なんという楽しい生活でしょう.
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したがって,アイヌが運上屋に下るということは,自分の意志でやっているはずはない,となる。
強制されているのでなければならない──強制連行だ,──となる。
松浦武四郎も,このような考え方をする者である。
そこで,「下られ」という言い回しを使っている。
松浦武四郎が嘆いた状況は,商品経済の必然である。
限界集落,核家族,夫婦共働き・保育所・学童保育,のようになる。
しかし,会社勤めをしている者は,強制連行されたのではない。
自分で選んだのである。
アイヌの運上屋勤めも同じである。
「1050人中 362人」の数は,強制連行で成るものではない。
運上屋勤めは,《勤めないか勤めるかが選択肢になったときは,勤めるの方が選ばれる》といったものなのである。
残された者は,世を恨む。
下った者は,けっこうよろしくやっている。
松浦武四郎は,前者の生態には深く関心を持ったが,後者には関心を持たなかった者である。
要するに,社会派の正義漢であった。
そして彼のこの面が,"アイヌ"イデオロギーを引きつけてきた。
── "アイヌ"イデオロギーは,松浦武四郎の『近世蝦夷人物誌』の中の話の引用,ないしそれを脚色した物語づくりを,常套にしている。
引用文献
- 松浦武四郎 (1858) :『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌』
- 高倉新一郎[校訂], 秋葉実[解読]『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 上巻』『中巻』『下巻』, 北海道出版企画センター, 1985.
「戊午第三十八巻 東部 茂無辺都誌 全」,『中巻』, pp.609-634.
「戊午第三十九巻 東部 沙留誌 壱」,『中巻』, pp.635-667.
「戊午第四十巻 東部 沙留誌 弐」,『中巻』, pp.669-702.
「戊午第四十一巻 東部 沙留誌 参」,『下巻』, pp.11-45.
「戊午第四十二巻 東部 沙留誌 肆」,『下巻』, pp.47-83.
- 知里幸恵 (1923) :『アイヌ神謡集』「序」
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