- 「天川恵三郎手記」, 1934.
- 小川正人・山田伸一(編)『アイヌ民族 近代の記録』, 草風館, 1998. pp.17-19.
- 参考文献・参考Webサイト
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高橋真「アイヌ新聞, 第2号」, 1946-03-11
小川正人・山田伸一(編)『アイヌ民族 近代の記録』, 草風館, 1998. pp.240,241
熱血漢 天川恵三郎翁
明治三十二年第七師団が旭川市近文アイヌ部落に接近して設けられる事となり、利権屋達は「アイヌ部落のあるのはやっかいだ」と叫んだ。
遂に翌三十三年二月園田道庁長官の名で近文アイヌ三十六戸は天塩方面の山奥へ移り四十五万八千坪の土地は請負師大倉喜八郎に渡すべし、との強権指令が下った。
これを開いて憤慨したのが浜益コタンの天川恵三郎翁で「くそ、長官までもアイヌの敵か、よーし近文ウタリーを救って見せるぞ!!」と他のアイヌ同情者と共に東奔西走、旭川や東京の演説会場では力の限り「同族の危禍」を訴へて、卓励風発大熱弁を揮ひ、近衛公、大隈伯等諸名士、東京日日外各新聞に陳述して与論を正しく導き 遂に同年五月三日西郷内務大臣から園田長官に「アイヌ移転取消」命令を下させ 全国的に注目された「近文アイヌ問題」を美事に解決させたが 此の大功と苦辛を何等認めず、長官一派に味方して翁を囹圄の身とさせたりする裏切りアイヌも現はれたりしたが かへって裁判官から『その方こそアイヌの佐倉宗吾郎である』と激励された。
同族の為に敢斗しつ冶も家庭的にはいつも苦しかった。
たった一升の米も買へぬのみか質屋通ひをしてアイヌの運動費を入手した。
翁はまた熊獲りの名人で「仲間」からも名人と謳はれた。
明治初年小樽に出来た只一つの小学校に入ってアイヌ初の学生となったのも天川翁であった。
昭和九年三月二十八日七十一歳で札幌放送局に招かれ本道としては珍らしい全国放送で「熊狩りの話」を放送した。
翁は札幌へ出るのに十余里の雪道を歩いた処から風邪に冒され、放送を卒へたその晩高熱で急性肺炎にかゝりとうとう四月五日札幌で客死したのである。
滅亡しゆくアイヌ同族の為に大同団結と救済を叫んで地位も財産をも投げて血で綴るその生涯をアイヌに捧げた天川翁の名こそはアイヌ史の一頁に深く刻まれるであらう。
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喜多章明「旧土人保護法とともに五十年」
『コタンの痕跡──アイヌ人権史の一断面』, 旭川人権擁護委員連合会, 1971, pp.367-436.
pp.379,380.
此の形勢を観取した時の師団営舎建築請負人であった大倉喜八郎は、該地が発展途上にある旭川村 (現在の旭川市、当時は鷹栖村) に接近し、将来有望の地であり、且つ給与予定地とはいえ表面は官有地であり、たまたま地元有志者間に移転問題の声あるを奇貨とし、土人を他に移転せしめ、国有未開地処分法により之が貸下げを受け、一躍巨利を獲得せんとの野望を抱き、旧土人の代表者を旅舘丸福屋に招いて酒食を饗し、巧に之を籠絡し、天塩内淵に転住方を承諾せしめ、遂に明治三十三年二月二十八日付貸下の指令を受けた。
されど天は大倉の野望を許さなかった、図らずも所轄鷹栖村有志板倉才助氏を筆頭とする面々の公憤を買い、遂に一大社会問題と化し、時の憲政党後援の下に旧土人留住同盟会が組織せられ、猛烈な紛争を続くること数回に及び、其の結果同年五月三日付大倉に対する貸下処分は取消された。
その後該予定地は所轄鷹栖村において管理されて来たが、明治三十五年該予定地一帯は旭川町に編入されたので、鷹栖村との関係を離れ同族の酋長天川恵三郎等が主となって管理に当ったが、同族の風習である強者専制の権をほしいままにし、独断を以て保護地の小作権を転売して私利を貪らんと企てる等、ともかく管理方法宜しきを得ず絶えず内紛が繰返された。
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砂沢クラ,『ク スクップ オルシペ 私の一代の話』, 北海道新聞社, 1983. pp.66-68
和人に土地を追われる
冬のとても寒い夜でした。
アイヌ地問題で部落中の男たちがコタンコロクル (村おき) だった祖父のモノクテエカシの家に集まってきました。
炉の周りは、二重三重に人が座り、女や子供たちの座っていた家のすみまでは火の暖かさが届きません。
あんまり寒いので、私は炉のそばへ行って手足を温めました。
すると、それまで一度も私を叱ったことがなかった父が「なんて行義が悪いんだ」ときびしい口調で言い、客が帰ってから、また私を叱ってほおを打ちました。
私が、家のすみに積んであった俵のところへ行って泣いていると、エカシが連れに来て、膝の上に座らせながら「かわいそうに。ホモンベ (もも引き) もタンピ (タビ) もはかせないで。寒かったろう」となぐさめてくれました。
アイヌ地問題は、アイヌの土地を和人たちがだまして取り上げようとしたため起きました。
旭川の町はずれから第七師団まで見渡す限りアイヌ地で、土地もよく、アイヌが和人の小作人を使って畑を作らせていたので、和人たちはアイヌを追い出したかったのでしょう。
私が父に叱られた夜のような集まりが何度も聞かれ、部落中の人が紙にハンを押して札幌や東京へ持って行く、ということが何年間も繰り返し行われました。
土地問題では、天川 (恵三郎) さんという人がエカシの相談相手になり、部落のために尽くしてくれました。
浜益のアイヌでしたが、学問のある立派な人で、旭川の中学校に通っていた男の子と、その妹の女の子を連れて近文に移り住み、アイヌのためにがんばっていました。
ところが、そのうち天川さんに対して「自分の土地が欲しいのでやっているのだ」とか、「よそ者なのに近文の問題に口を出すのはおかしい」といった噂や悪口が流きれ、部落の人の心もバラバラになってゆきました。
そして、私が小学校の三年生になった春 (明治四十年)、私たち近文部落のアイヌは住みなれた家や土地を追われ、町から遠く離れた荒地の中に和人が建てたマサ小屋に移り住むことになったのです。
あのエカシの立派な家も、家の東側にあった六十頭ものクマの頭を祭った立派なイナウサン (祭壇) も、米ヌカやこぼしたアワツブなどを捨てたムルクタウシも、和人たちは、私たちが家を出るとすぐに壊して古川に投げ捨ててしまったそうです。
エカシの家にあったアイヌの宝物は、運び出したらトラックいっぱいになったでしょう。
昔は、トラックなどなかったので、エカシは少しずつ運び出すつもりでいた、と思います。
まさか、すぐに壊して捨てるとは思わなかったのでしょう。
このマサ小屋に移り住んでから悪いことがつぎつぎと起きました。
部落の、そして私たち家族の不幸が始まりました。
あれほど私たちのために尽くしてくれた天川さんも、訴えられて牢屋に入れられたり、どこへ行くにも巡査がついて回るようになり、イヤ気がきして樺太に行ってしまいました。
どうしてみんなで天川さんを大事にして、昔からのアイヌ地やアイヌの暮らしを守らなかったのでしょう。
いまも、くやまれてなりません。
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