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砂沢クラ (1983), pp.58-60
私は五歳 (明治三十五年) ぐらいから、ピアソン夫妻が町に開いた日曜学校に通っていました。
日曜学校では、エホバとかキリストのことを描いた絵が何枚も重ねてとじであり、それをめくりながら聖書の中のお話を聞いたり、賛美歌をうたったりしました。
いくつの時だったか、まだ学校へ入る前、クリスマスの日に大勢の人の前でアイヌ語の賛美歌を歌ったことがあります。
みな喜んで拍手し、ごほうびに、かわいい絵のついた布をもらってうれしかったことを、よく覚えています。
私が歌ったのは、「イエス エノマップ (わが主イエス)」という歌で、アイヌ語の賛美歌は、ほかにも四つか五つあったのですが、父が「言葉が違っている」と言ってうたわせてくれませんでした。
この歌だけ、「これならいい」と許してくれたのです。
アイヌ語の賛美歌はパチェラーさん (ジョン・パチェラー=英国聖公会宣教師、アイヌ語学者、一八五四〜一九四四) が作ったものなので、たぶん日高の言葉だったのでしょう。
だから、父は「違う」と言ったのだ、と思います。
確かに、大きくなってから考えても、よくわからない言葉がありました。
祖父がコタンコロクル (村おさ) だったので、家には、よく外国人が来ました。
パチェラーさんも旭川に来ると、必ず訪ねて来ました‥‥
‥‥
パチェラーさんという人は、ほんとうにアイヌのことは何でもよく知っていましたし、アイヌ語もアイヌと同じように話しました。
私は、いままで何人もアイヌ語を研究する人に会っていますが、アイヌのように話せたのはパチェラーさんぐらいです。
パチェラーさんは、あまり背も高くなく、白いヒゲで、まゆげの下で黒い目がピカピカ光って、アイヌのエカシそっくりでした。
ひょっとすると、外国にさらわれて育てられたアイヌなのでは、と思ったほどです。
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- 引用文献
- 砂沢クラ (1983) :『ク スクップ オルシペ 私の一代の話』, 北海道新聞社, 1983
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