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砂沢クラ (1983), pp.123-125
知里幸恵さんのこと
金成さんの子供 (知里) 幸恵さんは "もらい子" で、金成さんの妹ナミさんの子供でした。
幸恵さんは、六つの時に金成さんにもらわれたのですが、これは、まだ幸恵さんが生まれる前からの約束だったそうです。
金成さんはまだ若い時、幸恵さんのお父さんの知里高吉さんと仲よくなり結婚を申し込まれたそうです。
金成さんは「私は、こんな体なので結婚出来ない。私のかわりに妹をもらってくれ。そして、もし女の子が生まれたら、私に育てさせてほしい」と言った、ということでした。
幸恵さんは、私より五つ、六つ下で、小柄でしたが、お父さんの高士口さんに似て、とてもかわいい顔をしていました。
頭がよく勉強家で、本をたくさん持っていて、小説を読むのが上手でした。
私やいとこのコヨちゃん、妹のカネは、よく幸恵さんに小説を読んでもらいました。長い小説は、何回にも分けて読んでもらうのですが、細いきれいな声で、とても上手に読むので、続きを聞くのが待ちどおしかったほどです。
幸恵さんは小さい時からユーカラも上手にしました。
私が初めて幸恵さんがユーカラをするところを見たのは、幸恵さんが小学校の四年生ぐらいの時でした。
金成さんのお母さんのモナシノウクフチが遊びに来ていて、母がフチに「ユーカラを聞かせて」と何度も頼んだのですが、フチは恥ずかしがってなかなか始めません。
すると、幸恵さんが「じゃあ、私がする」と言って、座布団をまくらにしてあおむけに寝てユーカラを始めました(註)。
フチが「起きてしなさい」と言って、幸恵さんを起こしていた姿がいまも目に浮かびます。
幸恵さんは女学校に通っているころ、名寄の村井さんというアイヌの青年と恋仲になりました。
背の高い、きれいな人で、とてもまじめな青年でした。
村井さんは第七師団の兵隊だったので、日曜日には金成さんの日曜学校に来ていたのです。
村井さんとの結婚話がすすまないうちに、幸恵さんは金田一先生に頼まれて、ユーカラの本を出すために東京へ行きました。
幸恵さんと小きい時から仲よくしていた妹のカネの話では、幸恵さんは「いやだ」と泣いていたそうです。
「幸恵さんが北海道に帰りたがっている」「体の具合が悪いようだ」と風の便りに聞いているうちに、「東京で亡くなった」という知らせが入りました。
持病の心臓病で死んだ、という話でした。
私が三女の末子を亡くし、登別で気が狂ったように泣き暮らしていた時、幸恵さんのお母さんのナミさんが「私も幸恵を死なせた時はつらかった」となぐさめてくれました。
ユーカラを残すためとは言っても、遠い東京へ行って、よその家に世話になり、「アイヌ娘」と珍しがられて、幸恵さんはどんなに心細く、気を使ったことでしょう。
東京へ行かず、好き合っていた村井さんと結婚していたら、もう少し長生きしたのではないでしょうか。
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註 :「座布団をまくらにしてあおむけに寝てユーカラを始めました」
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菅江真澄 (1791), pp.551-555.
夜さりになれば、アヰノどもの来つゝ音曲をかたる。
そのさまを見れば煙草匣を枕として、のけざまになりて、左の脚を延べて右の脛を左の股にのせて、左の手して額をおさへ、あるはかざし、右の手をもて胸を敲き、あるは肘をして脅腹をうち叩き、獣のうなるやうにたゞ、ううと唄ふやうなれど、‥‥
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- 引用文献
- 砂沢クラ (1983) :『ク スクップ オルシペ 私の一代の話』, 北海道新聞社, 1983
- 菅江真澄 (1791) :『蝦夷迺天布利』
- 『菅江真澄集 第4』(秋田叢書), 秋田叢書刊行会, 1932, pp.493-586.
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