Up 平賀サダモ, 1895-1972 作成: 2020-02-01
更新: 2020-07-21


  • 略歴
      早稲田大学語学教育研究所 (1983)
    p.3
    平賀 サダモ,アイヌ名サタモ (Satamo). 女.
    明治 28 (1895) 年ごろ,福満 (Piraka) に生まれ,21歳までそこで生活.
    姉妹 3人の末. 鳩沢ふじの氏の,すぐ下の異父妹.
    3歳ぐらいの時,母のいとこの両親のもとにひきとられて ,その老夫婦のもとで独り子として育てられた.
    養父 Sankerek 氏は Piraka の生まれ.
    養母 Tumonteno さんはウョッペ (Uyotpe, 今の福満の内にあり,Piraka の隣部落) の生まれ.
    8-9 歳まで日本語を全然知らなかった ,
    20歳を過ぎてからは,旅芸人一座の一員として,内地 (本州) にしばらくいたこともあり,北見・釧路・樺太にいたこともある.
    調査当時は ,勇払郡鵡川町字春日3区に,息子・娘との3人暮しだった.
    昭和47 (1972) 年 8月1日,平取町荷菜の,息子平野氏宅で死亡.
    生前,美声と 博学で知られ,また,姉のワテケ氏没後の約10 年は全道一のユーカラの大伝承者として活躍した.


  • アイヌ語
      早稲田大学語学教育研究所 (1983)
    pp.4,5
     1955年当時はもう日常生活はほとんど日本語ばかりで 営まれていたから ,ワテケさんもサダモさんもふだんはアイヌ語で話すことはほとんどなく, 当日二人が久し振りに会っても,日本語のやりとりが出てくるのだった.
    しかし年配の人達の間では,若い人にきかれたくない秘密の話をする時などにアイヌ語を口にすることもあり,また,集まって昔話などをしたりきいたりすることもあるとのことだった.
    その程度にしかアイヌ語は使われていなかったにもかかわらず,二人のアイヌ語の能力は完全だった.
    しかもワテケさんは,1ヵ月の語彙調査の間に,忘れていたこともずいぶん思い出し,日本語をまぜないで,アイヌ語だけで話すことができるようになっていた.


  • アイヌ研究者/学者の評価
      山田秀三 (1969, p.59
    平賀さだもさんは平賀(ぴらか)のサンゲレキ酋長の養女で、尊敬すべきユーカラの伝承者、地名にも詳しい。


  • 金田一京助・ユーカラ・ハヨピラ・アイヌ観光
      鳩沢佐美夫 (1970)
    p.170
    [対談相手] ‥‥‥ ほら、知っているでしょう。
    △△△というあのお婆ちゃんだ。‥‥‥
    私たちの職場に、アイヌ語や唄を教えに来ているんだ、ときどき──。
    あのお婆ちゃんは、十八歳になるまで日本語もしゃべれなかった、って言っていたよ。
    [以下,鳩沢]
    pp.176-178
    先ほど、あんたが名指したお婆ちゃん、歌を教えてくれたとか‥‥‥。
    今、T[苫小牧]市のある病院で身寄りのないような状態で寝たきりなんだ。
    このお婆ちゃん、ユーカラ伝誦者としては第一人者だと言われている。
    確かにそれだけの価値はあるだろう。
    昨年 (昭和四十四年) は、道の文化賞かなんか貰ったようだ。
     ‥‥‥
    このお婆ちゃんの胸の中には、さっきのハヨピラの話でもちょっと登場した○○○ [金田一] 博士の顔がいつもあるんだ。‥‥‥
    リューマチ系の病いで、もう七、八年の病院暮し。
    僕がときどき見舞ったりするとね、アイヌ模様縫込みの着物があるだろう、あれをベッドの上で縫っている。
    「○○○先生に送ってやるんだ」──とね。
    ところが、今年の四月にさ、余病が出て、それまでいた病院では手の打ちようがなくT市の大病院に移された、という話を聞いた。
    それで僕は、まずOOO博士に連絡しなければ、と、よけいなことを考えたんだ。 ‥‥‥
    で、そのときに、便乗したようで非常識だが、アイヌ民族擁護のために、なにとぞおねがいします。 ──ハヨピラの件につき、と、僕は短く三点の質問を併せて寄せたのだ‥‥‥。 つまり、
       1、○○○博士のオキグルミユーカラについて‥‥‥。
       2、シンタと円盤との語彙的な関連‥‥‥。
       3、神オキクルミは、とくにこの地方に限定されたものではないか‥‥‥。 という三点──。
     ‥‥‥
    ところがさ、その手紙を出してから、一カ月なんの音沙汰もないんだ。

    p.179,180
    昨年(四十四年) の八月にね、先ほど入院中だといったお婆ちゃん、病院から脱け出てXXX先生とかを伴って僕の家へ来たんだ。
    「アイヌ語を調べに来たが、すまんが部屋を貸してくれ。今もう一人、お婆さんが来るから」ということだ。
    このお婆ちゃんは僕の家の親戚にもあたるしね、「いいだろう」ということで一部屋を開放した。
    pp.183,184
    で、その観光ということで、また、あの入院しているユーカラ伝誦のお婆ちゃんの話に戻るが、この管内で観光に依存している人は,多く見積もっても八千七十四名いるというアイヌ全体のうち,1%もいればせいぜいだと思う。
    全道にしたって、実際のアイヌは、二、三百人ぐらいだろう。
    つまり、あのお婆ちゃんも、病院暮しをする前は、そのうちの一人だった。
    このお婆ちゃんは、確かに頭はいいし、色白で美人、そのうえ美声の持主というスターになる要素を多分に持ち合わせている。
    それだけに、病院にはいってからも、アイヌ研究者がひきもきらずに訪れたりする。
    ね、けれども、さっき、十八歳まで日本語もしゃべれなかった、などと、だんだん本質的なものを失ってしまっているんだ。
    いくらか名が知れ渡ると、とにかくいろんな者が訪れてくる。
    アイヌ語、あるいは風俗、あるいは歴史、ね、そういった人たちから、同じような質問を、尋問的な形で受ける──。
    するとアイヌ文化は伝承文化だから、語り継がれる、すなわち、純粋な知識の吸収もなく、今日的な時限で自分だけの記憶の糸をたぐり寄せる。
    というあたりから、フィクションが多分に加味されるわけだ。
    と言うのもね、僕の家の近くに、このお婆ちゃんよりお年が上の、つまり、さっきXXX先生が来たとき、もう一人の老婆がくるったろう。
    まったく観光ずれのしていないお婆さんがいる。
    そのお婆さんに、ユーカラ伝誦の第一人者というお婆ちゃんのユーカラを聞かすと、?‥‥と、首をかしげる。
    そのXXX先生と三人で話をしていたのを耳にしたが、やっぱり、素朴なままの山の中に住んでいるお婆さんのほうが、いろいろな面でアイヌ文化の純粋さを持っているようだった。
    ね、でも、それを僕は全面的に否定しようというのではない。──
    あのお婆ちゃんが生まれたのは明治二十七年だという。
    ところが、明治三十六年に、あのお婆ちゃんの生まれたH [平賀] 部落に、アイヌを対象とした四年課程の<土人特殊学校>が建っているんだ。
    だからね、お婆ちゃんも当然にひらがなだけは読めるし書けるわけだ。
    日本語どころじゃなくね──。

    それともう一つ、空飛ぶ円盤に関連した唄がある、っていっていたね。
    さっき、あんたがよくわからない、というから黙っていたが、おそらくね、旭川地方にあるという──
        optatesikep
    purpurke
    hisikurkata
    kaniponcheppo
    kamuysinonhum
    一節じゃないかと思うんだ。
     ‥‥‥
    確かに光る物体は登場するが、kaniponcheppo ──すなわち金の小魚であるとのこと──。
    まったく、円盤との関連はないということが断言できるわけだ。
    でもさ、あのお婆ちゃんも、よくあの施設 [ハヨピラ] に招かれていたし、ま、いろいろ人に訊ねられたりすると、つい関連付けちまうようになるんじゃないかな。
    と言うことは、先にも言ったが、昔話を語り伝えるお年寄りがまったくいなくなった現状だろう。
    そこで観光と結び付いた形の伝承とくれば、このお婆ちゃんにかぎらず、観光というものは、相手にとっちゃ、いわば商品だからね、その商品価値を、相手に迎合されるような形に誇大しちまうんだ。
    それがいわゆる、観光アイヌであり、アイヌということを口にする、現代アイヌの状態であるということ──。







  • 参考/引用文献
    • 鳩沢佐美夫 (1970) :「対談「アイヌ」」, 日高文芸, 第6号, 1970.
      • 沙流川(さるがわ)―鳩沢佐美夫遺稿』, 草風館, 1995, pp.153-215.
    • 山田秀三 (1969) :「北海道のアイヌ地名十二話」
      • 『アイヌ民族誌』, 1969, 10月.
      • 『山田秀三著作集 アイヌ語地名の研究 1』, 草風館, 1995, pp.13-72.
    • 早稲田大学語学教育研究所 (田村すず子) (1983) :「アイヌ語音声資料1一ワテケさんとサダモさん一 (沙流方言) 会話・単語」(1955年にテープ録音)
      • https://core.ac.uk/download/pdf/144450455.pdf