Up 本多利明, 1743-1821 作成: 2019-02-22
更新: 2019-02-23



  • 著作
    • 1786 :『大日本の属島北蝦夷之風土草稿』
    • 1786 : 最上徳内[著], 本多利明[訂]『赤蝦夷風説考』
    • 1789 :『本多氏策論ー蝦夷拾遺』
      • 『近世社会経済学説大系 第1 (本多利明集)』, 誠文堂, 1935
    • 1791a : 最上徳内『蝦夷国風俗人情之沙汰』の「序」
      • 須藤十郎編『蝦夷草紙』, MBC21/東京経済, 1994, pp.21-24.
    • 1791b :『蝦夷土地開発愚存之大概』
      • 『近世社会経済学説大系 第1 (本多利明集)』, 誠文堂, 1935
    • 1791(1792) :『蝦夷開発に関する上書』
      • 『近世社会経済学説大系 第1 (本多利明集)』, 誠文堂, 1935
    • 1794 : 人見璣邑[問], 本多利明[答], 朝比奈厚生[校]『外郎異談』
    • 1795 : 最上徳内[述], 本多利明[校]『北辺禁秘録』
    • 1795 :『自然治道之弁』
      • 『近世社会経済学説大系 第1 (本多利明集)』, 誠文堂, 1935
    • 1798 :『経世秘策』
      • 『近世社会経済学説大系 第1 (本多利明集)』, 誠文堂, 1935
    • 1798 :『西域物語』
      • 『近世社会経済学説大系 第1 (本多利明集)』, 誠文堂, 1935
      • 現代語訳 :『日本の名著 25』, 中央公論社, 1972, pp.419-486
    • 1801 :『蝦夷道知辺』


      本多利明 (1789)
    浚廟の御時天明五乙巳翌丙午両年の内、本朝の属島蝦夷国界御見届御用被仰出たり。
    依之彼地え有司可被差遣に極れり、於是利明窺に懐ふに、幸甚成る哉此時に逢ふ事、何卒して彼地へ我党を仮令匹夫に成り共為し遣し度、因之謂を設け、其筋の有司に便り是を請ふ。
    漸く成て余か末弟最上徳内といふ無禄人あり、此者を彼地へ先陣に契諾決整したり。
    小計策に当りて蝦夷土地に遣しけり。
    東都よりは遥に数百里を隔たる嶋成れは、土地風気の異るは必然たり、
    百菓百穀の出産の豊歉、皆是北極の出度に因りて検査する事にして、則天文算数の預る所なり。
    依て彼地処々に於て日月星辰の高低を測量し、北極出度を測歛し、山海の諸産を探索し、金銀銅鉄山を穿鑿せしに、甚の最良国なる事、余生涯の案に差ふ事なし、
    時到らは此事を何卒して上に奏し奉んと常に希ふ所なり、
    是太平の□御代に生遇、御国恩のありかたさを常に忘れかたきの微意なれはなり。
      寛政元巳酉年十一月 本多利明


      本多利明 (1791a)
    予、北越に生れたれば蝦夷土地の稼穡(かしょく)する者多くあって、土人の風俗土産の噂などを聞くに、
    土人少々海辺にのみ住居し奥地中は皆空地なれども、山海の土産多く土地広大にして良国なる事なり、日本国にも劣るまじと。
    されども日本人の住居を許容なきは領主の国政なれば、其の詮なし悋むべきの甚敷なりと聞く。
    きて盛長におよび江都に赴き算数の学をもて業となし、今に至て三十余年、然るに安永年間より赤人 魯斉亜国人なり の大舶蝦夷の奥へ漂着に(なぞら)い、年々渡り来りて交易を乞う事頻なりと。
    其の土産の品々は、和蘭船持渡の品類と異る事なしといえり。
    段々と土人と親しみふかくなりて、彼国の掟を教示し又は宗門などを勧ると風説あり。
    時に浚明廟の御代厳命により、蝦夷界御見届御用有て彼地へ有司(有司) [役人] 趣く、(おも)うに幸甚なる哉、此時に逢う事、
    何卒利明(ひそか)に我党を遣し、
    島々土地の正状を巡検し、
    北極出地 [北緯] に()り、百穀百果耕作の道、
    或は山海の土産及び金銀銅鉄の山岳、
    或は土人の風俗人情の模様、
    或は魯斉亜人日本国の境内へ渡り来り徘徊ノ始末、
    或は海路里程地理方位、
    或は日本より運送の大船渡海の節気早晩により海上波濤(はとう)あらく損益ある事、
    或は新製大船帆柱三本立を用い火器炮術をそなえ進退自在をなし、永久に荷役(にうち)破船なく運送便利を得る等の品々を探索し校究せん事
    生涯の丹誠なれば、
    其筋の有司に青嶋某 [俊蔵] という人あり、是を請うに、(ようやく)なって、
    予門人最上徳内を彼土地へ先陣役に諾し小計策に当りて、東蝦夷地へぞ遣しける。
    江戸よりは(はるか)に百里を(へだ)たる島々なれば、風気の異るは必然たり。
    百果百穀の豊凶は北極の出度によって検査する事にして則天文数道の預る所なれば、彼地において北極出度を測量し島々の正情を巡視し、
    また山海の諸産および金銀銅鉄の山々を探索せしに、金銀銅鉄の山々も澤山なり。
    開発成就の上は百穀百果豊饒にして最富国となるべきは、予生涯の(あん)(さしつか)う事なし。
    よって検査せし草稿を編集して三巻となせり。
    蝦夷国風俗人情之抄汰という。
    誠に太平の御代に遇う御国恩の難有(ありがたき)をおもう微意なればなり。
    一、
    蝦夷土地の是迄開けざる次第は、日本庶人常の口(すさみ)にも、
      蝦夷の土地は都て雲霧深くして湿地にて、殊に寒国なれば住馴ぎる日本人などは中々以て住居は成り難き土地なり、
    仮令(たとえ)押して住居する共、五穀も生じざれば、食物貧して忽に飢餓に及ぶべし、
    殊更湿気を請い疾病を発し廃人と成るべし、
    又往古より日本の農民度々渡海し耕作をも試したる事有といえども、(つい)に稔りし(ためし)なしに依って、今に開発せざるべし。
    大なる事は庶人も知る所といえども、彼患難あれば往古より空しく捨て置たるべしなど、兎角に毎年春の末頃より夏に向て雲霧多く地面につきて、夏中を盛りとし、秋の末頃までは更に晴天することなし、依て夏中には風烈は決してなし故に耕作物の稔りざるも理也
    といえり。
    懐うに((尤))なり。 如何というに、
    日本国(ひらけ)し以後年久しく戦国ありし時は、常に愍代(みんだい)を以て業と為、
    (たま)に開業を志す人ありという共、 合戦に忙しく、故に日本の内だに(つまびらか)にする事あたわず、
    (いわん)や遠方まで用の事などは詮なき事故、只夷秋は夷秋と見たるまで類年を経たるものならん、
    今に至て開けざるべし。
    一、
    蝦夷の土地開発成就して良国と成べき仕方は、
    春の末頃にも至れば雪も消えて草木皆冬枯となるは、雪国の常也。
    於是迄間(おいてこれまでのあいだ)、曠野の内田畑となるべき場を検査し、乾燥なる時節を量り、風烈をまち、風上(かざかみ)より大勢にて放火を()け遍く焼払えば、(はぎ)(すすき)(あし)(かや)(よし)(あし)の類の下草は悉く焼払、故に日躔太陽の温熱正直に地面に稟遺(うけのこし)、毎日毎日地面を蒸し立るにおいては、地面に雲霧つくことなく、太陽は温熱を土地に含積するは、温熱百穀百果豊熟するは必然なり。
    左すれば、昼夜に霄壊(しょうじょう) [天と地] と温気と冷気と昇降すれば、雲霧は地面を離れ去り大宇高く上昇して常の雲となり、風気行れ、雷電あり雹雨など降りて霧も鮮散し、晴天して四時を(さし)えず至り、万物を□育(ろういく)する者也。
    是開業成就し良国となる(もと)也。
    於是山岳の渓泉を導き、或は井を掘り、溝を設け、遣用水の便利を計り、田畑を墾耕し、百穀百果を蒔植の農業をなしなば、終に良田畑となる事疑なし。
    此時に当らば、成べき丈けは雪出生の者を先にし、
    奥羽越佐((能))加六((州))の海辺の者往古より毎夏蝦夷へ渡海し渡世する者夥しく、此者などは好所の幸を得て妻子牽き連れ移((渉))すべし。
    又鍛冶木匠を(はじめ)、諸職人をも追々遣し、家電器材の製作あるべし。
    (さて)又御領私領寺社領等に罪人あり。
    主親殺(しゅおやごろし)其外重罪人は格別、盗人已下にて死刑に成るべき者は、助命せしめ、遠島追放などの者も、左遷の(さむらい)も、倶に(つかわ)し、明吏を加え守護させしめ、
    土人の撫育教導は、是までに用ひ来りし土地の風儀あり。
    日本の((法))令を以て補助せしめ、
    彼地に(すべ)て乙名というて長夷あり、是を名主庄屋年寄の如く其郷村に称し、法令は是に伝え、土人を()くべし。
    天監師 [天体観測者] あり、民間暦を製作し、博く国中に頒行し、通用の宝貨あり、諸事日本の如くに()するは必然たり。
    (ここ)に近き証拠あり。
    中華北京王城の土地は、北極出地四十度にして、百穀百果豊饒の良国なり。 蝦夷土地も又北極出地四十余度なれば、諸土産も北京の如くなるべし。
    既に蝦夷諸島より北方の海上一万町を隔て、ヲホツカ [オホーツク] と(いう)国あり。此国は魯斎亜国の東浜にして、大港あり。 此港は帝都ムスク((ワ))へ運送する大川ゆえ、其繁昌して売女屋迄あるといえり。
    此ヲホツカより又東浜数百里にして、日本常州の丑寅の方位に当て、カムサスカ [カムチャッカ] 国あり。 北極出地五十四度気候なり。 阿蘭陀国に等し。 往古は蝦夷にて日本の属国にありしが、享保の頃より魯斎亜国の土人多く渡り来り、今は彼国の領となる。 安永年間に城郭を築き、副将の交代ありと聞く。
    (さて)又蝦夷諸島の西方へは満州山丹国より地続きにて、中華及び朝鮮国に (へだた)る南方は日本国也。
    如斯(かくのごとく)東西南北各良国となりて蝦夷諸島を包券(ほうかん)せり。
    然るに中央に所在する蝦夷諸島は、寒国にて人民住居成かたし五穀稔らす(など)云は、餘り不穿鑿の沙汰也。
    今既に開国の時至りたるか。
    魯斎亜より東蝦夷諸島を開業をなせば、此時に当りて日本にも異国との境界を建て、関所を(かま)え、要害ありて武威を()くに於ては、異国へも輝きす、蝦夷土人も尊信せんは疑いなし。
    誠に国家全するの祈禱と成て目出度かるべし。
      干時寛政三亥年正月中旬愚存の大概を書す。