Up 貝澤正 : 二風谷「会長」 作成: 2016-10-14
更新: 2017-03-17


      萱野茂「おのおのが信じた路」
     貝沢正『アイヌわが人生』, 岩波書店, 1993. pp.279-284
     正さんと私は性格も違うし、片や北海道でも指折りの篤農家で、米を千俵も出荷するなど、アイヌ側から見ても尊敬できる方だけに、近寄り難い存在でもありました。私自身は造林人夫を振り出しに、やまご、彫刻、村人、特にアイヌから白い目で見られがちな観光アイヌを、登別温泉ユーカラの里で、昭和三六年から四二年までやっていました。ですから、正さんと私は、沙流川の右岸と左岸を、おのおのが信じた路を歩いていたという感じの二人でありました。
     その二人を急接近させたのは私の実弟である貝津末一で、当時、今もそうですが、観賞石というものが持てはやされ、石組合が結成されたさいに、正さんに組合長になってもらいました。それからは正さんという名を呼ぶ者は少なくなって会長と呼ぶようになり、その呼び名は亡くなるまで続きました。


      二風谷部落誌編纂委員会『二風谷』, 二風谷自治会, 1983
    pp.233,234
     二風谷上地区の民芸品街が現在のように形づくられ始めたのは、昭和40年からである。この年日勝峠が開通した。前年の東京オリンピック開催で日本はようやく国際的に他国と肩を並べられるまで戦後の経済は復興して、日本に旅行ブーム,レジャーブームのきざしが現われた頃である。
     利にさとい二風谷の人々は、逸早くこの旅行ブームに目をつけ、日勝道路が開通すると、国道沿いにアイヌ民芸品店を作って商売することを考えついた。
    ‥‥‥
    そこで貝沢正がバラック建ての民芸品販売用貸店舗を建てたので、ここに最初の二風谷民芸品店ができた。 昭和43年にはドライブインピパウシが開店し、昭和46年松崎商店も現在地に移転。その間に、萱野茂、貝沢末一、貝沢つとむ、貝沢はぎ、貝沢守雄などの貸店舗や民芸品店が軒を並べて、今日の二風谷商店街の基礎を作った。

    pp.235,236
     昭和48年には二風谷商工振興会 (会長貝沢正) が発足、商店街の振興を計っている。
     昭和57年6月現在二風谷商工振興会 (会長貝沢正、副会長貝沢勉、萱野茂、事務局貝沢薫) 会員数20名 (加入民芸品店16、飲食店4)。

    pp.239,240
     昭和30年代末には沙流川の石が観賞石として注目されるようになり39年から貝沢末一、貝沢留治らが専業販売し始めた。なお二風谷から初めて販売された石は、昭和32年に登別温泉玉川商店のチセの前に飾られたものである。
     昭和39年1月には「日高銘石保存会」が設立され (会長貝沢正、会員発足時15人。昭和43年20人)、庭石、鑑賞石の採取と加工販売をしている者が中心となり、木彫りや土産品店を業とする者や石の愛好家が加わって、会員の親睦や原石の払下げ、加工技術の研究や道内道外市場の開拓などを行なった。


  • 二風谷の特異性
    コタンは,小規模な集落である。
    よって,周囲に和人が進出してくると,じきに和人が優勢になる。
    コタンは和様に同化される。
    併せて,人の移動が生じる。
    こうして,コタンは消えていく。

    二風谷は,こうならなかった。


    二風谷は,先ず,コタンが比較的大きかった。
    喜多真章『北海道アイヌ保護政策史』(1934) に記載の「明治五年以降ノ人口動態」「部落別戸口表」(pp.328-339) では,つぎの数値が上がっている:
戸数人数
道内3,31415,683
日高支庁1,2845,104
平取村2801,307
二風谷52289

    つぎに,地形が「谷」であるので,和人が優勢になるというような和人の入植にはならなかった。
    そこで,「アイヌ」という同族意識が,生活をしやすくするものとして,あまり壊されずに残ることとなった。

    そして,地域でアイヌ観光を起業し,さらに「アイヌ文化博物館」も建つということがあって,二風谷は「アイヌ」を負っていくしかなくなる。──引っ込みがつかなる。
    「アイヌ観光地」は外部者から「アイヌ」地区と見られることで成り立つが,二風谷はこの立場を引き受けた。

    TVカメラが入るとウポポを演じ,「これは自分たちの生活の中にある」をアピールする。
    このような地域・地区は,もう二風谷の他には無い。
    二風谷は,特異なところなのである。


    とはいえ,当然のことながら,ひとは一様ではない。
    このことの押さえも肝要である:

      二風谷部落誌編纂委員会『二風谷』, 二風谷自治会, 1983.
    pp.324,325
     計画が樹てられて五年、どうにか出来あがりました。その間には「俺などはとても書けない、誰かがやるだろう」と関心を持たない委員も居りましたが、よい部落史をつくるためにと部落の皆さんのご協力をいただきました。
     一部の方で取材を拒否した人もいて残念に思っていますが、担当した委員の説明不充分でご理解をいただけなかったことは委員長の不徳によるものと深くおわび申しあげます。
     長い間には意見の対立もあり,一時は投げだしたこともありましたが、部落の皆様には「兎に角やって見ろ。余り注文をつけないから」と激励され思い直したこともありました。 やっとお手元に届けることができ、ご批判を賜りたいと思います。
    pp.284,285
    貝沢福市
     二風谷の歴史の編纂計画は聞いているが、どうせ歴史とはきれいな所だけで、功罪を正しく伝えないだろう。 例えば町会議員として地域発展につくしたと書くと思うが、実際は町民のために何をやったのだ。俺はそれが気にいらないので協力もしないし、もちろん参加もしない。
     俺が言いたいことは、大分前のことだがあるエライ人が「二風谷アイヌは勤労意欲がない。だから貧乏している」と言ったことがある。この人以外の一般の人もそう思っている。
    昔二風谷のアイヌは、開拓使が農耕の指導をした時にはよく働き暮らしも楽であった。明治31年の大水害の時に流失した畑147町歩と記録されている。当時の戸数54戸で割ると一戸平均2.8町も畑を作っていた。
     大正4年平取下流が造田化され、二風谷地区に頭首溝をつくった。導水のために沙流川をせき止める堰堤を造った。
    ニ風谷の悲劇はその時から起こったんだ。
    水害の度に二風谷の畑は流され、大正11年の水害では復旧をあきらめて、畑は女に委せ男は出稼ぎに出るようになった。
     奥地の乱開発と王子製紙工場の原料丸太の流送によって耕地は決壊し、せまくなって行った。
     大資本が太り、下流の水田農家が豊かになると反対に二風谷の農民は貧しくなって行ったんだ。そういう図式に目をつぶってよくも「働く意欲がない」と決めつけたり、自らの政治力のなさをアイヌに転稼したものだ。エライ人が一度でも王子製紙や下流の水田農家に抗議したことがあったか。
     王子製紙は平取まで散流、平取からは筏で富川まで下げた。二風谷を無視したことになる。王子は補償の意味か川向へワイヤロープのつり橋をかけたが、風で飛ばされ利用できなかった。
     下流の水田農家は小学校を出たばかりのアイヌの子供を雇いや子守に安い賃金で使ったり、戦後は米1俵と大豆3俵を交換して、大豆は代替えで出荷し3倍も利益をあげていた。春食う米を借りて秋穫れた大豆を出したのも二風谷の農家だった。
     このように何の役にもたたない指導者をほめたたえる歴史は反対だ。

      菅原幸助『現代のアイヌ』, 現文社, 1966.
    pp.211,212.
     このコタンでは、共同浴場や生活館だけでは厚生ができないとして、三十世帯の農家が共同して養豚事業をはじめていた。
    世帯厚生資金を一世帯十万円借り受け、そっくり出資して三百万円の資金で共同豚舎を建てた。
    ところが、この事業も一年間で百万円ほどの赤字をだしてしまった。
    北海道庁の指導ではじめた事業だが "お役人様" が「国が応援しているから大きくやれ」と無責任なことをいって、畜舎をハデな建物にして資金を使いすぎたのも失敗の原因だった。
     事業をはじめるときには、視察だ、検査だとうるさくやってきた "お役人様" も、いざ失敗してしまった、となるとさっぱり姿をみせてくれない。
    コタンのはずれにクリーム色もあざやかな豚舎だけが、むなしく建っていた。
    厚生省のキモ入りではじめたコタンの共同養豚事業も、赤字をかかえて行き詰まっているというわけだ。