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菅原幸助『現代のアイヌ』, 現文社, 1966.
pp.122.
貝沢さんの家はニ風谷コタンの入口、ゆるい丘の上に洋風の美しい建物だった。
二年前、古いアイヌに伝わってきたチセ (家) を壊し、思い切った近代建築に建てかえたという。
招き入れられた家の中は、札幌市で会った大学教授の家とよく似たモダンな感じの造りである。
居間と応接室の間を、赤レンガのペーチカで仕切ってある。
ゆったりとしたソファーに腰をおろす。
採光のいいガラス窓から、春の太陽が暖くさし込んでいた。
外はようやく木の芽がふくらんだばかりなのに、この室内ではサボテンがすくすくとのび、南国のさまざまな植物が、美しい花をつけていた。
pp.123,124
貝沢さんは二風谷コタンに生まれ、この土地に育った。青年のころ、シャモがアイヌにつまらぬ偏見を持っていることにがまんがならなくなって、コタンを逃げだす計画をした。つまり、アイヌの苦悩からのがれるために「アイヌ民族の大陸移動」を実行したのだ。
昭和十二年ころの話だ。貝沢青年は、毎夜のように、コタンの小学校に友達を集めて討論した。
「われわれはアイヌの子に生まれてしまった。どうしたらアイヌの偏見、差別からのがれることができるのか」
いろいろと抵抗や反発もやってみたが、目に見えない大きな圧力は、わずかのアイヌ青年が、いかにもがいてみてもどうすることもできない。当時、満蒙開拓青年義勇軍、日本農民の満州移民団が、続々と大陸めざして移動していた。
「よし、われわれもあの開拓移民として満州に渡ろう。満州には、おれたちを差別扱いするシャモがいない。そこでアイヌの楽天地を築こう」
そんな話が、コタンの青年たちの結論だった。
貝沢青年は、さっそく茨城県内原の加藤完治先生をたずねて、アイヌ民族の大陸移民計画を相談した。二風谷小学校の先生をしていた穂坂徹さん (現在札幌市在住) と二人で、コタンの青年たちを引き連れ日本海を渡った。満州では、シャモもアイヌもない。文字通りの「自由な天地」でのびのびとした気持ちで、クワを振うことができた。「あれが成功していれば、二次三次とコタンからアイヌの青年たちを送り込めたのだが。終戦でだめになり、生きて帰るのがやっとでした」
貝沢さんは、いかにも残念そうに夢におわったアイヌ民族大陸移住のいきさつを話すのだった。
しかし、コタンに帰った貝沢さんは、満州での経験を生かして、新しい農業経営に取り組んだのである。まず家畜を飼って有畜農業、自給自足の農業経営をはじめた。満州で練えた開拓農民精神は、一年二年と実績をつみかさねていった。荒地を開墾して十余年、このごろでは約五十ヘクタールの大農場を持ち、シャモの開拓農家をしのぐ、りっぱな農家になった。
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