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砂沢クラ (1983), pp.46-48
祖父のモノクテエカシの二男イタキシロマアザボが、まだ子供のころのことです。
川原で遊んでいると大きなタンネアパパ (へビ) が出てきて、アザボをしつこく追い、ももに食い付き、なかなか離しません。
やっと離して傷の手当てをしたのですが、悪くなるばかりで骨まで腐り、いまにも死にそうになりました。
ヌプクル (占い者) に聞くと「イタキシロマアザボにかみついたへビは、去年、村の若者たちが半殺しにして川に流したへビの神だ。あの世に帰れず、モノクテエカシの力であの世に送ってもらおうとエカシの子供にかみついたのだ」と言うのです。
実は、前の年に大水害があり、山津波が起きて、川原に大小さまざまのへビがたくさん集まっていました。
そのへビを村の若者たちが、つぎつぎとたたき殺しては、川の中にほうり込んでいました。
そこへモノクテエカシが通りかかって、「ああ、なんということをしているのだ。そんなことをするとパチがあたるぞ」と若者たちをたしなめたのです。
へビの神が、若者たちにかみつかず、若者をたしなめたエカシの子供にかみついたのは、エカシを神に祈る力のある人、その祈りに神が耳を傾ける人と見込んだからでした。
ヌプルクルによると、へビの神は「イナウ (ご幣) をたくさん作ってあの世に送ってくれたら、この子の傷を治し、一生守ってやる」と約束したそうです。
エカシがへビの神の言う通りにイナウをたくさん作って神に祈ると、アザボの傷は治り、大きくなって、足は少し短くなりましたが、山猟も不自由なく出来る体になりました。
このアザボは、イタキシロマ (言葉の落ち着いた人) の名の通りに、兄弟の中でも、一番まじめで、しっかり者でした。
男兄弟七人がモノクテエカシを囲んで話をしているような時でも、だれかがつまらないパカ話を始めると、怒って「失礼する」とさっと席を立ってしまうのです。
よくテルシフチが取りなして、席に連れ戻していました。
フチを大切にし、フチの言うことはよく聞きました。
兄弟中で一番背が高く、色白で、美男子でした。
へビの神が約束を守ったのでしょう。
イタキシロマアザボは、まだだれもみやげ用の木彫り細工をしていなかったころから、サジやハシ、エモン掛けなどを上手に彫り、内地 (本州) から来る客に売ったり、畑にオタフク豆をたくさん植えて高く売り、金持ちになりました。
口ぐせのように「私は家族に、いつも米のメシを食わせている」と自慢したので、親せきの人たちは、「コメメシアザボ」とあだ名で呼んでいました。
アザボの家と私が住んでいたエカシの家が隣り合っていたこともあって、私とアザボの子供たちとは、実のきょうだいのように仲よく育ちました。
私が「兄さん」と呼んでいたアザボの長男の川村カ子トアイヌもへビの神が守っていたのでしょうか。
イタキシロマアザボと同じように、財産を築き子孫をたくさん残し、健康で長生きをしました。
| アイヌ民芸品
近文部落で民芸品の製作が本格化したのは、大正六年以後、旭川町 (現在の旭川市) が特別会計で製品を買い上げ、奨励してから。
クマ彫りは大正末期から昭和十年代まで彫刻の専門家を招いて講習を受け、技術の向上を図った。
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- 引用・参考文献
- 砂沢クラ (1983) :『ク スクップ オルシペ 私の一代の話』, 北海道新聞社, 1983
- 参考Webサイト
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